「6月28日」
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「新作『般若』完成しました。
薄桃色の肌色仕上げで、
女性の哀しさと色気が出たように思います。」
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「6月9日」
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「プリンストン大学ナッソーホール協会にお招き頂き、
東山のパークハイアット・ホテルにて
トーマス・ハレー博士の能楽レクチャーに参加させて頂きました。
自作面12面と古面3面を持参して解説をし、記念のメダルをプレゼントされました。
素晴らしいホテル・美味しい食事・楽しい会話で最高の日でした。」
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「4月23日」
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「4月21日(日)の北陸中日新聞の朝刊に『風姿と気配』の記事が掲載されました。
今回の展示会の内容を上手に記事にして頂きました。感謝申し上げます。
展示会は6月16日までありますので、5月18日(土)には私の単独スペシャルギャラリートークも開催されます。
能面の歴史・創作面の変遷などを作品解説に交えて話させて頂きたく思っています。
お出かけ下さいましたらありがたく存じます」
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「4月20日」
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「現在開催中の金沢能楽美術館主催『風姿と気配』―能面と現代抽象の対峙 のスペシャル対談として、
山本浩二先生と私の対談が行われました。
沢山の方々にお出で頂き感謝申し上げます。抽象画と能面の融合は有り得ないようで、
共通点も多く案外融点が低いと思われました。
美しい展示だとの好評を得ています。是非一度お出かけくださいましたら嬉しく存じます。6月16日(日)まで開催」
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「12月13日」
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「今日は事始めの日で、毎年恒例の『書と能面飾り』に室町通り一条の本田味噌本店に光堂さんと伺う。
まず白味噌の美味しい雑煮を頂き、それから本田社長と今年一年のこもごもなどお話しながらお店の壁に展示します。
能面は拙作の翁・増・童子で、書は川瀬みゆき先生の筆で、これも毎年同じで変わりないことを旨としています。
毎年一度、12月14日~1月15日まで展示いたします。
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「6月14日」
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「新作『老女小町』が完成しました。
前作の時は『卒都婆小町』を意識して打ちましたが、
今作は『桧垣』を意識しました。
少し肩の力が抜けて来たように思うのですが。」
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「4月30日」
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≪新作『節木増』が完成しました。
多くの矛盾を受け入れていくような豊かさと、
高貴な品位を備えた『節木増』はやはり難しかったです。
いつも、匂やかな私だけの女面を打ちたいと思っています。≫
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「3月21日」
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「新作『怪士』が完成しました。
宝生流宗家蔵の『木汁怪士』を参考にしましたが、
直写しではないので、流石に木汁のシミは遠慮して施しませんでした。
難しい面ですが、一度は挑戦すべきだと考えていました。
額の側面のくびれと眉の部分の量感が把握し難く、
また鼻の脇から頬への盛り上がりも複雑な造形です。
顎が若干細めですが、そこがこの面に危うさを与えて
魅力となっているのではないかと思います。」
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「2月22日」
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「昨日は東京に行き、
東京国立博物館の『近世能狂言面名品選―「天下一」号を
授かった面打―』を観てきました。
二時間ほどじっくりと鑑賞しましたが飽きないですね。
いろいろな事を考えたり思いついたりして、励まされて帰ってきました。」
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「1月9日」
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「世界情勢は穏やかとは言えないですが、2023年は穏やかにあけました。
今年は三箇日をゆっくりと過ごし4日から仕事を始めました。
年末に根元から折れた前歯一本はまだ治っていませんが、
雑煮も御屠蘇も問題なくいただきました。
昨日、完成した「黒式尉」(梅若家の面:参考)は、
左右不対称であり陰陽を表現しているのでしょうが、
そこにはまだ様式化されない原初のエネルギーを感じるのは
私だけでしょうか?
彩色は銀箔彩色にしました。自然にもっと黒錆を生じてくるでしょう。
そこもまた魅力的だと思うのです。
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「8月31日」
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「画像『翁』二面」
「奈良・柳生の丹生神社にある有名な『翁』を打とうと思い立ちました。
何度か丹生神社に電話をしても繋がりませんので、
思い切って柳生公民館に電話させていただきました。
するとOさんがご親切に対応して下さり、丹生神社の宮司様を御紹介していただきました。
早々に宮司様に電話いたしましたら、すでにOさんから連絡をしていただいていました。
嬉しく、そして柳生の里の奥ゆかしい風土など想像し、
このような風土の中に御座します『翁』を打ちたいと、更に思いを深くしました。
しかし、宮司様のお話では氏子の総意として、神社の関係者以外の人には御見せできないと云う決まりだそうです。
昔は何度か博物館や美術館の能面展に出品展示されたそうですが、近年はすべてお断りしておられるとのことです。
しかたなく美術書や展示会カタログの写真を元に打つことにしました。
丹生神社『翁』の特徴は、鼻が高く尖っていること、目がおおらかな弓形の切れ長であること、
鼻の穴が漏斗状で奥に小さな穴が開いていること、
木地に黒漆が塗られて胡粉の多くが剥落していること、鬚が麻でできていることなどです。
通常の翁と相当に異なる様式で、しかも彫技は最高に優れています。初めは仏師の作かと思いましたが、
他にこの面と同一の作者と確実に思われる『延命冠者』があり、その作柄が誠に柔らかなので、仏師ではないと考え直しました。
いずれにしても能面の源流の一つであろうと思われます。
更に想像を逞しくすれば、これらの面群(丹生神社には室町時代から8面の優品が保存される)からの影響下に、
今日とは違う能面様式が派生した可能性があり得ると思うのであります。
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「8月10日」
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「今朝の京都新聞に『また逢う日まで京都サンボア』と云う記事を見つけました。
「中京・老舗バー今月末90年の歴史いったん幕」だそうです。
建物の老朽化が理由で移転を検討しているが、時期や移転先は未定とか。
「カンターに肘をついてはいけない」「豆の皮は皿ではなく床に捨てる」など頑固なこだわりの店。
私は、一度だけ行きました。そして、カンターに肘をついて注意されました。
貴重な思い出をいただいたのでした。」
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「8月9日」
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「今日、とあるスーパーの自転車置き場で、買い物を終え帰ろうとしていたのですが、
隣の自転車にあたってそれが倒れそうになりました。
自分の自転車もあるので、どうしようもなく一瞬困ったのですが、その時誰かがその自転車を押さえてくれました。
見るといつも自転車置の整理をしているおじさんでした。
小柄で真っ黒に日焼けして、にっこりとして、すぐ向こう行ってしまいました。
大したことをした訳でもないと言うことですよね。
その通りです。
ちょっと助かっただけですが、「この人優しいな」と私には感じたのです。
しぐさや物言いで、そう感じたのですが、これ大事だなと思いました。
同じことをしても、横柄だったり、高圧的な人が多いですから。」
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「6月5日」
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「29回目の一門展の開催日が11月17日~20日に決まりました。
コロナ禍で2021年から今年の4月まで、ほとんど教室をしていませんので出品作品数が心配です。
外出自粛の中で、コツコツ面打に励んだ人は、かえって沢山あるのですが、そうでない人もいます。
この際、沢山ある人は沢山出品していただきましょう。
課題作は『万媚』です。
『万媚』は「化生」と言われるように、妖艶な魔物の役に使われますし、可憐な乙女の役にも使われます。
作者の思いは鑑賞者に、どのように伝わるのか楽しみです。」
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「12月16日」
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「12月5日の林定期能百周年記念の最後の演目、
『鞍馬天狗』シテ:林宗一郎師は拙作「癋見悪尉」でした。
その時の写真が金の星写真場:渡辺真也さんから、やっと届きました。
この大天狗がゆったり出て来た時に、
何とも言えない慈愛を感じたのは、私だけではないと思います。」
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「12月14日」
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「12月13日は“事始め”で、昨日から正月の準備をします。
私は本田味噌本店に、恒例の≪能面飾り≫をしに行きました。
午後六時に閉店すると、白味噌の美味しい御雑煮をいただきます。
それから、御店の正面の壁に『翁』『増』『童子』の三面と、
書家:川瀬みゆき氏の扁額を飾りました。
それか、正月用の白味噌を頂いて帰ります。
さあ、新しい年に向かって頑張ろうと思いました。」
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「12月8日」
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「金の星写場・渡辺真也さんから
11月28日の京都観世会例会
『生田敦盛』の写真が届きましたので、
ご披露させて頂きます。
シテ=吉田篤史師 面=「十六中将」光勲作」
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「12月2日」
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「はや12月になってしまいました。
京都産業大学ギャラリー・むすびわざ館『能面面々』も、18日までとなりました。
まだご覧になってない方は是非お出かけください。
京都で仕事をしている12人の能面作家の作品が一堂に見られる、またとない機会です。
これが、終わると今度いつ出来るかわかりません。」
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「8月4日」
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「8月になりました。8月は能面教室は休講です。
コロナ禍のせいばかりではなく、5年ほど前から我家にお出でになられる道中があまりにも暑いので、
8月は休講にしています。
京都はいま、「まん延防止等重点措置」が31日まで出されていますが、患者数は一向に減りそうにありませんので、
いつ「緊急事態宣言」に変わるかも分かりませんね。
9月23日~26日開催の「光勲會能面展」がどうなるか心配です。
アメリカ・ポートランドのジャパニーズガーデンから、夏期ニュースレターが届き、
コロナ関連の制約はほぼ解除されたそうです。うらやましいな。」
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「7月7日」
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「6月20日に芦屋の『Gallery Ashiya Schle』の『山本浩二展』に行きました。
久しぶりなので、芦屋在住の弟子Wさんにお会いしたかったですが、
用事があるので無理とのことで、直行直帰となりました。
23日、緊急事態宣言解除となったので、久しぶりに家内と堺町蛸薬師『風庵』に食事に出かけました。
大将も女将さんも元気で良かった。
7月1日、京都光勲會能面教室を二ヵ月ぶりに再開しました。
鎌倉教室は、コロナ感染患者が増加の傾向と、オリンピック関係者の来日者の増加を考慮し、
今月も中止を決断しました。鎌倉教室の皆様、もうしばらく我慢をお願いします。
3日、観世会館に『道成寺』シテ:林宗一郎に出かけました。
宗一郎師の弟子で郷里の友人M田君をはじめ色々な人にお会いし、心が和みました。
4日、また神戸方面に出かけました。
山本浩二画伯の奥様の森永一衣さん(ソプラノ歌手)のリサイタルが、
内田樹氏(思想家・武道家)の道場『凱風舘』でありました。
やっぱり生のソプラノは気持ち良いものです。『凱風舘』は内田先生の合気道の道場ですが、
能舞台にもなります。鏡板の『老松』は山本画伯の筆によるもので、素晴らしい抽象絵画です。
内田先生は長く観世流を稽古されていて、能を何番も舞っておられますし、
奥様は能楽師(小鼓』:高橋奈王子師でした。能と深い縁がおありだったのです。
今日はこれから、新型コロナワクチン初回接種に出かけます。」
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「6月14日」
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「気が付けば紫陽花の季節になっていました。
4月の永井画廊での展示会以後は籠り気味の生活が続いています。
こんな時は、女面をじっくり打つのがいい。
修行時代のように・・・・・。
濃密な時間が戻って来た。」
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「5月2日」
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「銀座:永井画廊での『鬼の角を切るとはどういうことかー展』が終了しました。
後半は緊急事態宣言となり、客数は減ったんぽですが、ぽつりぽつりと絶えることなくお出で下さいました。
でも、ほとんどがコラボ相手の山本浩二先生の御客さんばかりで、私の知り合いはほんの僅かでした。
それも芸術の鑑賞眼のある御客様なので、能面の素晴らしさを一生懸命に説明をしました。
抽象絵画とのコラボは、とても相性が良く素晴らしい展示会になりました。
多くの美術関係者からお褒めの御言葉も頂きました。
山本画伯の抽象画の『老松』の前で、私の創作面で能が演じられる日が来ることが夢となりました。
ありがとうございました。』
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「2月19日」
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「昨日、メールでポートランドの清水義明教授がお亡くなりなられた知らせを受けました。
85歳まであと数十日だったそうです。
コロナ禍か始まってから、音信不通になられたので、まさかと不安に駆られていましたが、
コロナではない病だったようです。
私を京都の画廊で見つけて、オレゴン州ポートランドのジャパニーズガーデンに招聘して頂いたことは、
特別な幸運な思い出です。
先生の御宅でのパーティーで、皆楽しく過ごしている時、私だけで書斎に入れて頂きましたね。
その時、不躾にも『能面花鏡』の序文を無理やりお願いしたのでした。
アメリカ在住の娘さんから、85歳の誕生日にオンライン追悼会をしましょうと誘われましたが、
多分、アメリカの人が多くて、英語だろうし、PCの操作もままならないし、照明がどうもまだ駄目なので、辞退しました。
ご冥福をお祈りします。ありがとうございました。」
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「2月16日」
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初めてのオンライン会議。
4月15日~29日まで、銀座・永井画廊で山本浩二先生(抽象画家)とコラボ展を開催することになっていますが、
題名がなかなか決まりません。
山本先生が昨年、永井画廊で私の能面をご覧になり、とても気に入って下さいました。
その時、拙書『能面花鏡』の中の、創作面「夜風鬼-角切り₋」の樂直入先生の文章を詠まれて、
ある啓示を受けられ、御自身の絵も『角を切る』ので、コラボ展をしたいと申し出て来られたのが始まりです。
『角を切る』とは、鬼として完成された形状(あるいはイメージ)から、角を欠損することで、より鬼の心の内面を露わにする、
又は見る人に鬼とは何か?という本質まで問い詰める思考を提起させる効果があると言われます。
山本先生のドローイングの『老松』などを拝見して、更に何かを欠損させることが出来るのだろうかと思うのですが、
私が樂先生に言われて、思い悩んだ末に『夜風鬼』の角を切っり、切り痕をそのままにした、
そのことがヒントだったとおしゃいます。
ともあれ、題名がまだ決まりません。決まり次第に、案内をさせて頂きます。
まだ少し時間がありますので、またオンライン会議で煮詰めながら進んでいきますが、
問題は我家の電灯では私の頭が光り過ぎることです。
照明を落としても、光りの筋が入って困ったものです。
何かで電灯に紗を掛けなければと思っています。」
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「1月18日」
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「昨日、金剛能楽堂に『初世金剛巌七十回忌・二世金剛巌二十三回忌 追善能』に行って来ました。
番組=『朝長』懴法: シテ金剛永謹 太鼓:前川光長
主人公の源朝長(義朝の次男)は平治の乱で敗れ、青墓まで落ちのびましたが、
深い傷を負い、義朝一行の足手まといならぬように自害した16歳の武将です。
小書の「懴法」は僧の観音懴法を強調し、青墓の宿の長が死後も弔っていることを讃えて います。
あの世から霊を呼び出すために太鼓が非常に重要な役をします。
この舞台のために、太鼓の皮を緩めて低い音が出るように、何日もかけて調整するそうです。
太鼓方の難曲中の難曲。「デ~ン」と不思議な響きの音でした。
前シテ(青墓の長:曲見)、後シテ(朝長:十六)。
『春栄』仕舞 シテ:金剛謹一郎 御家元のお孫さんで、まだまだ幼いのですが、
びっくりするような大声が出ました。将来がとても楽しみです。
『魚説法』シテ:茂山忠三郎
俄、坊主が魚尽くしの説法をする話です。忠三郎師に独特の味が加わって、笑えました。
『巻絹』真之五段神楽 シテ:金剛龍謹 ツレ:宇高徳茂
天皇の霊夢により、全国から巻絹を熊野三社に奉納するのですが、都からの使者(ツレ)が、
冬梅に心ひかれて、和歌を詠んでいる内に、期限に遅れてしまいます。
理由を述べても許されず縛られて罰を受けようとします。
そこに、音無天神の神霊が憑依した巫女(十寸髪)が現れて、救い出します。
小書の「真之五段神楽」もまた、重い習物だそうです。
金剛流の「十寸髪」は他の流儀と違い、一見普通の女面のようですが、よく見ると額に靨があり、
尋常ではない表情です。ですから、 ぱっと見が美しい、これは良いことではないでしょうか。
※ 入口で検温・消毒をし、席は一つ置きでソーシャルディスタンスを取って満席でした。
コロナウイルスへの備えは十分でしたので、
この様な形なら能の公演は今後も可能ではないでしょうか。
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「12月14日」
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「後2週間ほどで今年も終わります。
コロナ禍の大変な年末ですが、
それでも‘事始め(正月の準備を始めること),の13日が来ましたので、
例年の通り、一条室町の『本田味噌本店』の≪能面飾り≫に出かけました。
『翁』『増』『童子』の三面に、今年はコロナ禍厄除けの思いを込めて、『般若』を飾りました。
来年は良い年になりますように!
松の内まで(1月15日)飾ります。
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「12月6日」
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「5日(土)に世田谷の『静嘉堂文庫美術館』に行って来ました。
『能をめぐる美の世界』-初公開!彌之助愛蔵から
120年・新発田藩溝口家旧蔵能面コレクションーを観てきました。
面袋に入れられ面箪笥に、目録とおり一面も欠けることなく67面が収まって
今日に伝えられているそうです。
公開にあたって、九面を新井達矢氏が丁寧な修復をされています。
室町期のものもあり、優品が多いのですが、
洞白『童子』・杢『万媚』(美しく修復されています)が心に残りました。
まだ修復が必要な面がありましたので、
全て修復されたら、いつの日か関西でも展示して頂けてたら良いのにと思いました。
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「11月30日」
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「昨日、佐川美術館に『吉左衛門X 斉藤隆X十五代吉左衛門・樂直入』を観に行って来ました。
この展示会のポスターを初めて、街中で見た時は驚き、見つめました。
線描きのぞーっとするような目と割れた茶碗のアップですからね。
凄い展示会でした。
私などには何も言えないません。
絶対に観た方が良いです。」
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「11月22日」 |
「久しぶりに金剛能楽堂へ金剛定期能に行きました。
我家から徒歩10分で、御所へ散歩の途中でいつも横目に見ていますが、
しばらく能を拝見しに行けませんでした。
先ず『玉井』豊嶋彌左衛門師です。
前シテは近江作「増女」(素晴らしい面でした)と連れ面「小面」でした。
後シテは「悪尉」のようで、連れ面「小面」二面で、どれも良い面でした。
次は狂言『萩大名』茂山あきら・茂山茂・丸石やすしの三師でした。
久しぶりに拝見して渋みを増したようで、楽しかったです。
最後に金剛龍謹師の『枕慈童』で、面は龍衛門作「童子」だったかもしれません。
美童で、姿が良く見惚れていました。
客席はソーシャルディスタンスで一つ置きにしていましたので、
三密の心配はなく、ゆっくりと鑑賞できました。」
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「11月10日」 |
「鎌倉の画廊:ジ・アースにて『中西和(むつみ)展』を拝見しました。
中西先生は日本画の先生でとても優しい絵を描かれます。
何処にでもある風景がなぜか懐かしく心に迫って来ました。
後で分かったのですが、洗い出しと言う技法で描かれた絵だったのです。
綺麗に描いた絵を、ブラシで洗うのだそうで、
能面の洗い彩色みたいだと思いました。
長時間お話を伺ったのですが、話題は美術業界のことから料理の話に移り、
奈良の御出身なので、奈良・京都の話と発展して楽しい時間でした。
またお会いしたいと思いました。
今度は洗い出し技法の事をしっかりお聞きしたいものです。」
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「11月1日」 |
「美術館えきKYOTO『生誕110年記念 辻晉堂の陶彫』を観に行きました。
この先生の作品は、10年前に鳥取へ一人旅に行ったときに、県立博物館で
生誕100年展を拝見していました。
抽象的な大作は勿論凄いのですが、独創的な仮面の作品も多くありましたので、
とても印象に残っていました。
また、ひょうきんな人物像にとても心が引かれたのでした。
今回の展示会には、鳥取ほどの作品数ではなかったのですが、
やはり仮面に一番興味を持ちました。
またその生き方など読ませていただき、心が広く豊かになります。」
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「10月15日」 |
「気が付けばもう10月の半ばになっていました。
コロナ禍の上に特別製の暑い夏も終わり、今日は肌寒い一日になりそうです。
最近は良い事が少ないのですが、一つ良い事がありました。
9月30日にタクシードライバーから、腰痛がすぐ治る接骨院を教えてもらいました。
ドライバーの言うことには、「立ち上がれないほどの腰痛が週一回の3回で完治する」とのことです。
重症の人もどんどん治っていると言います。
最初は半信半疑でしたが、私も長年の腰痛に難儀していたので、
思い切って教えられた接骨院に、その日の内に行きました。
結果は帰るときには傷みが無くなっていました。
ゆっくりと筋肉を緩めて、後は一瞬です。痛くありません。
それから一週間後に行き、同じことをしてもらい、それで完治です。
次は二週間後に様子を見てもらいに行くと終了のようです。
世の中には凄い接骨医がいると聞いたことがありましたが、私も出会えたようです。
タクシーの運転手さんありがとう。」
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「8月30日」
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「今日のニュースで、奈良公園の鹿が側溝の水に身体を浸けて涼をとっている珍しい景色を
観ました。そんな中、昨日は奈良・学園前の大和文華館に『鏡中之美ー鏡が映しだすものー』を
観に行って来ました。
展示品の大方は、中国古代の銅鏡ですが、絵画も数点ありました。
その中の、掛け軸で『十王図』が気になりました。
地獄で閻魔王が亡者の生前の善悪を裁いている絵で、
鬼が一人の男を鏡の前に引き出しています。
鏡には、その男が鎧を着て、敵を斬り船から海へ蹴落としているところが映っています。
鏡には、不思議な力があり、神仏の姿を現わしたり、人生や男女の恋心を投影したりしますが、
人間の真実の姿を映す魔力もあると思われていました。
私がとても興味を持ったのはここではなく、武士が敵を斬り殺すことを罪としている所です。
この絵は、南北朝時代のもので、戦の絶えない時代ですが、現代のわれわれと同様に、
当たり前に殺人は罪と考えていたのですね。
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「8月2日」
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「8月になりましたが、コロナ感染者数は上昇しています。
4月から9月に延期されていました、第28回光勲會能面展(於:京都文博)は
更に来年の9月に延期されました。
例年春に開催していましたが、来年の春は銀座で私の展示会が予定されていますので、
秋の開催に致しました。
11月の鎌倉光勲會の展示会も来年の6月に延期致しました。
これで年内の展示会は全てなくなりました。
☆2021年4月16日~30日
「抽象画家:山本浩二画伯とのコラボ展」 銀座:永井画廊
☆2021年6月16日~20日
「鎌倉光勲會展」 一翠堂 + ミルクホールギャラリー
☆2021年9月23日~26日
「第28回光勲能面會展」 京都文化博物館
何卒よろしくお願い致します。
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「7月2日」
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「気が付くと7月に入っていました。
6月に能面教室を再開し、コロナ禍対策をしながら無事に乗り切りました。
6月24日の山陽放送新社屋能舞台への「小面」寄贈は和気藹々の内に行われました。
後援会の清ちゃん母娘と岡山駅で待ち合せて放送局へ向かい、
副会長の藤森氏に迎えて頂き、会議室で社長の桑田氏に手渡しました。
桑田氏は私と同じ歳で、中学校からの親友S君と高校でクラスメイトでした。
一気に打ち解けて、会話が進み、古い事まで話してしまいました。
ゴルフの渋野日名子選手をまだ無名の時から、桑田社長が見出しサポートして来た話もお聞きしました。
AIG全英女子オープン優勝のときは、一緒にイギリスに行っていたそうです。
能舞台は9月中に完成10月に公開の予定だそうです。
私の「小面」が舞台を守る女神さまになってくれれば嬉しいです。
7月6日から鎌倉教室に行きます。
鑿研ぎをしなくちゃ・・・・。」
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「6月22日」
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「6月から能面教室を再開しました。1回の人数を4人に限定し、マスクをして面打をします。
6月24日にRSK山陽放送(岡山市)を訪問します。
山陽放送新社屋ビルが今夏に完成され、その屋内に能楽舞台が新設されます。
私の郷里は倉敷市ですが、岡山・倉敷の文化圏内に、
能楽舞台が少ないことを憂いていましたので、それは、本当に素晴らしいことです。
山陽放送の舞台が完成されましたら、伝統芸能だけに止まらず大きな文化発信の拠点となると思いいます。
何か役立ちたいと思い、その舞台の女神になるように、
郷里の恩恵に感謝して私の一番大切な『小面』を寄贈させていただくことになりました。
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「4月23日」
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「本来ならば22日から「『第28回光勲能面會展』と
『能面花鏡』発刊記念:女面展」が開催されているはずなのですが、
新型コロナウィルス蔓延の為、9月24日~27日に延期になりました。
今後どのように収束していくのか分かりませんが、
経済も文化もズタズタにされそうで、恐ろしいことと思います。
私は、静かに小さな火を灯し続けていくように、
自分の作品を生み出していくことで耐えていきます。
皆様も頑張って下さい。
大月光勲 拝」
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「1月23日」
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「もう一月も下旬となりました。
6日からの銀座:永井画廊での個展で、3回も東京と京都を行き来して、やはり疲れました。
多くの方々にお出で頂き感謝申し上げます。
特に、13日の『能レクチャ―』の日には立ち見まで出てしまい、嬉しい悲鳴でした。
狭い所で演じて頂きました、林宗一郎師、川口晃平師、武田崇史師に感謝申し上げます。
18日に搬出を終え、19日には市ヶ谷で、『銀化』の句会に出ました。
俳句は点が入らず不調でしたが、中原道夫先生や、多くの句友に会えて、御酒も飲んで楽しみました。
20日は、家内と待ち合せて、美術館えきの「『婦人画報』と『京都』展」と高島屋の『京都の若冲とゆかりの寺展』に行きました。
欲張って展覧会を梯子したので、疲れたのか次の朝、風邪を引いてしまいました。」
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「12月12日」 |
「待ち焦がれた『能面花鏡』がやっと完成して届きました。
出来栄えは『満足』の一言です。
沢山の人にお世話になって、いい本が出来ました。
思い立って出版社の編集長と相談してから足掛け三年が掛りました。
スタッフの方々、応援してくれた方々に厚く感謝申し上げます。」
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「11月18日」 |
「昨日は11月17日で、ちょうど4年前の11月17日がパリの個展の初日でした。
2015年11月13日にパリ同時多発テロが起こり、14日に緊張しながら関空から飛び立ちました。
17日のパリは戒厳令下でお客さんがお出でになるのかとても心配でしたが、
沢山の人でホットしたのを思い出します。
昨日は祇園での句会に行きました。
大雲院の一室をお借りして、素晴らしい環境でした。
紅葉は五、六分でとても趣きがありました。
昼は「いもぼう」で御膳を頂きました。
句の方は、また今度公表することにします。
能面集『能面花鏡』発刊まで、あと少しです。」
よろしくお願いします。
大月拝
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「11月2日」
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「11月1日、京都国立近代美術館での、
『円山応挙から近代京都画壇へ』の開会式・レセップションに出席しました。
いつもの展示より近距離で鑑賞できますので、
緻密な筆遣いや、色合いに心打たれました。
今日から12月15日までです。
それから、10月の末に
映画『ジョーカー』を観ました。
何とも言えない後味です。
これも、是非御鑑賞をお勧めします。」
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「10月20日」 |
「昨日は観世会館に田茂井廣道独立披露二十周年記念『道の会』に行きました。
田茂井廣道師の『屋島-弓流・那須語-』小書きが二つ付いた大曲です。
面は「平太」で少し赤すぎるとは思ましたが、迫力の面でした。
そして、面使いが上手でした。
茂山忠三郎師の狂言『蝸牛』。忠三郎師は伸びやかな声が良く、御顔と姿も狂言そのものとなってこられました。
林宗一郎師の『石橋』は大獅子に子獅子が三頭で、華やか、かつ勇壮でした。
15ページもあるパンフレットは内容のあるもので、その中にこの会のコンセプトは『田茂井廣道が見たい番組を作る』で、、
柱は「祝い」と「源義経」と「林喜右衛門先生への感謝」と書かれています。
全てに配慮が行き届いた心のこもった、良い会だったと思います。」
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「10月11日」
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「11時に、いつもお世話になっている本田味噌本店の社長さんからの御招待で建仁寺で開催される、
70周年記念『百味展』に出かけました。
京都の百味会による料理・嗜好品・菓子の展示会で、
老舗の名物が一堂に会して、勉強にもなり、見た目も美しく飾り付けられていました。
本田さんには入口でお会い出来ましたが、友人の亀屋伊織さんは留守で、残念。
点心を頂きましたが、二種類の折り詰があり、
花の折りは瓢亭・美濃吉・中村楼・いづう・平野家本家の合作で、
月の折りは、山ばな平八茶屋・萬亀楼・辻留・大市・菱岩の合作です。
この会の時しかいただけない超豪華な特別製の御弁当です。
家内と花と月を分け合いながら堪能させて頂きました。
ありがとうございました。
その後、2時から京都国立博物館での、
『佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美』の開会式に出席しました。
百年前に三十六歌仙の巻物が分断されて売却されましたが、
それ以後初めて三十一歌仙が奇跡の再会を果たした展示会だそうです。
浪漫を感じるとともに、絵は味わい深く古びていますが、
和歌をじっくり読ませていただき、少しも古びたり色褪せていない歌の力は凄い。」
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「10月8日」 |
「気が付けば、十月も半ばに差し掛かろうとしていました。
九月は台風や猛暑で良い事が少なかったのですが、
敬老の日に父親が百歳の御祝い(安倍総理大臣からの賞状と銀杯)を頂けたのは良かったです。
十月六日に真如堂で催された『小鍛冶in真如堂』(シテ:林宗一郎師)に行きました。
黄金色の沢山の仏具の中に、蝋燭の光、太い柱、開け放たれた扉から樹々の緑が見えた居ました。
落ち着いた照明の中で、演じられる能は爽やかで颯爽としていました。
真如堂での公演は二度目だそうですが、今後毎年秋に催すそうです。」
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「8月31日」
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「8月が終わりますが、暑かったので、惜しむよりむしろ早く9月になってほしいぐらいです。
8月2日・3日・4日と片山家の能面・能装束展観がありました。
私は4日に拝見しました。今年は男面ばかりでしたが、珍しい面もあり良かったです。
帰りに入口に檜書店の小辰氏が居られ、雑談しながら本を選び、『昭和能楽黄金期』(山崎有一郎・聞き手三浦裕子)を購入。
エピソードと写真も豊富なので、名前だけ存じ上げている昭和の名人の姿を具体的に知ることができます。
10日は、大津市伝統芸能会館に、渡辺八尋氏の創作能『孫次郎』を観に出かけました。
渡辺氏は、数年前から親交のある弁護士さんですが、
観世流の稽古をし、能の台本を幾つも書かれている人です。
能面『孫次郎』を創作した金剛太夫孫次郎が老いて、且て面に打った亡き妻の面影を慕う物語ですが、
面を打つ場面の小道具に私の荒彫面をお貸ししました。
13日に倉敷に帰省。15日に帰洛のつもりが、台風で新幹線が止まり、16日に満席で指定席も取れず立って帰って来ました。
その夜、中立売門の中の大文字送り火を拝みました。
20日~23日と鎌倉教室。24日・25日と地蔵盆でした。
24日はアメリカ・オレゴン州ポートランドから、清水先生とメアリーさんご夫妻が来られて、地蔵盆の懇親会に参加され、
清水先生は楽さんと旧知の中で、再会を楽しんで居られました。
行く夏や胡粉塗りたて大飛出 夜吟
明日からは9月・・・・・・。
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「7月30日」 |
「7月27日(土)・28日(日)の両日、金剛能楽堂の虫干に行ってきました。
と申しましても、我家から歩いて10分ですが。
舞台には30面の能面が展示されていました。
28日には、その内の「雪の小面」「河内の孫次郎」を除いて、全て入れ替えて、展示されたのです。
室町期から桃山期までの名作が二日間で、58面も見られました。
素晴らしいことです。
29日(月)は、茂山忠三郎家を訪問させて頂きました。
狂言は、世の中を曇りない目で見て、嘘や見栄を許さず諷刺するところが、素晴らしいと思っていました。
今回、忠三郎師とお話をさせて頂きながら、その上に愛情があることに気が付きました。
見栄っ張りや、愚か者の嘘を暴いて笑いものにするのですが、
笑いながら、「人間だもの」と、相田みつをのような、深い愛情があるのです。
狂言面の神髄はここでしようか?。
良い三日間でした。」
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「5月4日」
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「神戸・御影の香雪美術館に『幽玄の世界への誘い』を鑑賞にやっと行ってきました。
梅若六郎家の面と装束の展示会です。
私の大好きな面ばかりで、懐かしささえ感じました。
「阿古父尉」=熊太夫(財連)の不思議な魅力の表情
「若女」=素晴らしい柔和さ
「増女」=是閑の優しい方の傑作だと思います。
「逆髪」=言うまでもない、美しく可愛らしく儚げ。上塗りの下の朱色が効いています。
「泥眼」=日永ですが、これは河内と思います。泥眼の怨霊化の完成形ですかね。
「老女小町」=日永。奥の深すぎる面です。
全部で30面ですが、どれも素晴らしいです。
二階展示室には、「白般若」がありました。頬の肉の削げようは、怖さと狂気を思わせました。
「重荷悪尉」=舞台では眉間から、複雑な表情がむらむらと出るのですが、近くで拝見するとふっくらと肉が盛り上がっているだけです。
ここらへんが能面の神髄でしょうか。
何処にもよらずまっすぐ帰宅。」
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「5月1日」
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「今日から『令和』と改元されました。そのよき朝に我が家の奥の部屋の壁で越冬した揚羽蝶が羽化してくれました。
一回り小さい体ですが、元気な様子で、私の手に止まっています。今日はまだ寒いので明日外に放してやります。
4月29日に第27回光勲會能面展が無事に終了しました。
大変盛況で嬉しく思いました。
今後とも宜しくお願い致します。
次は5月24日~28日の第7回相模原光勲會展です。
私は26日から会場にいますので、
是非お出で下さいますようお願い申し上げます。」
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「3月27日」
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「上野の東京国立博物館に行って、『上杉家伝来の能面・能装束』を見てきました。
良い面が沢山ありましたが、一番は「弱法師」でしょうか?珍しいのは、「神体」と「山姥」ですね。
カタログを求めましたが、写真では良さが出ていません。やっぱり時間を作って出かけなければだめですね。」
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「2月16日」
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「今年も早2月の半ばに差し掛かりました。1月は倉敷に帰省しましたし、来客も多く忙しく過ごしました。
1月14日には、ロサンゼルスからディズニースタジオ・アニメーターのレナートさんが来訪されました。
『シュガーラッシュ オンライン』が封切られて休暇が出来たので、メル友の私を訪ねて来られました。
実は、彼の趣味は面打なのです。ディズニーアニメを描きながら、休日は面打をして、かなり上手なんです。
能面談義を交わし、美味しい御酒も飲みました。
今度は、私がロサンゼルスに行きたいです。
その、2日後にヨーロッパから22人の見学者がお出でになり、
その後、アメリカからの見学者が8人お出でになりました。
不思議と海外からのお客様が多いのは、日本文化が広まりつつあるからでしょうか。
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「11月22日」
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「昨日は、青梅市御岳の玉堂美術館に行き、『能面と装束展』を見て来ました。
梅若万三郎家の能面が20面ほどが展示されていました。
作者名が記されておらず、比較的新しい能面が多かったようですが、
「敦盛」と「中将」が私の心に響きました。
紅葉が真っ盛りで、素晴らしい渓谷美の中の美術館でした。
帰りに、美味しい蕎麦を食べ、お土産に柚子と菊芋を買いました。
紅葉の見えぬ茶席に通されし 光勲
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「7月28日」
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「7月15日の花の能『烏帽子折』ではありがとうございました。
子方:吉田和史君の大活躍でした。
吉田篤史師の熊坂も力強くて良かったです。
私の面も頑張ってくれました。
皆さまありがとうございました。
昨日から29日まで、京都文化博物館で片山家能面能装束展(虫干)が始まりました。
早速出かけましたら、16面展示中15面が女面でびっくりしました。
「小姫」「小面」「若女」「増女」「節木増」などがいろいろ見比べられて素晴らしいです。
皆様も是非お出かけして見て下さい。
暑いですが。」
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「7月3日」
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「6月29日に三井記念美術館『金剛家の能面と能装束』の、
開会式と内覧会に行って来ました。
金剛流御家元御夫妻・若奥様は勿論のこと、
楽吉左衞門御夫妻もお出でになられ、
和気藹々とした雰囲気で拝見いたしました。
「雪の小面」「花の小面」の両面が並んでいて、
しかも、ほかに越智作と近江作と龍衛門作(金春小面)が展示され、
間近に拝見できますことは画期的なことです。
また、「おもかげ孫次郎」と「河内の孫次郎」が並んでいます。
これは有名な2つの孫次郎の相違点と相似点を探すことができます。
また、「増女」も増阿弥作と是閑作も少し離れてはいますが並んで展示されています。
是閑がどのように「増女」を改造したのか勉強になります。
素晴らしい面ばかりですので、是非御覧になってください。」
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「6月25日」
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「昨日で楽美術館『能と楽茶碗』が終了しました。
私も幾度も拝見させていただき、とても勉強になりました。
ありがとうございました。」
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「6月15日」
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「あっという間に日が過ぎて行きます。
大して何もしていないのに一日が終わる感じです。
周りの同年配の人も同じことを言っていますので、
これが年を取ったということですかね。
5月30日に渋谷・国学院大学博物館で「山本東次郎家の狂言面」を拝見しました。
有名な「ふくれ」「鬼」「狐」を間近に見て心から感服しました。
「鬼」の複雑で明快かつ圧倒的な存在感は素晴らしいの一言でした。
渋谷の駅が工事中で迷って大変だったけど行って良かった。」
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「5月27日」
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「5月23日に「MIHO MUSEUM」の『猿楽と面』に行って来ました。
前期と後期とで、二度拝見したました。
写真でしか観たことのない名品を沢山観ることが出来ました。
いい作品は存在感が違うと思いました。
彫りが深いし、表情も深いですね。
6月3日で終了します。後数日です。是非お出かけを。
「楽美術館」での『能と楽茶碗』は6月24日までです。
増阿弥・徳若・千種・是閑・河内・近江などの優品と、
私の河内『小面』写と創作面『夜風鬼‐角切り‐』の二面も含め18面が展示されています。
勿論、楽茶碗の名品がずらりと展示されています。
7月15日、第14回「花の能」、能『烏帽子折』シテ:吉田篤史師に、
光勲作「長霊べし見」が使われます。
http://www.hana-no-noh.com
是非ご覧いただきたく存じます。
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「4月25日」
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「18日からの第26回京都光勲能面會展も無事に終了いたしました。
来場くださいました皆様ありがとうございました。
18日の岩崎久人氏とのギャラリートークがとても好評で嬉しく思っています。
面打も能も長くされていて経験豊かな高次元の話になり楽しい時間でした。
また、機会があれば再現したいと思います。
5月4日(金・祝)の楽美術館での楽吉左衛門氏とのギャラリートークは、
お陰様で定員オーバーとなりましたが、
5月3日(木・祝)2時からの金剛能楽堂での金剛永謹家元と楽吉左衛門氏の特別対談は、
席がまだありますので是非お出かけください。
金剛流家元の半能『三輪』の後に、楽氏との対談があり、
楽美術館の入場券(1000円)が付いて4000円です。
金剛家元が能面をいろいろ持ち出して具体的な御話をしてくださるとのことです。」
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「3月21日」
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「昨日、17日から始まった楽美術館の『能と楽茶碗』に行って来ました。
と、言いましても目の前で1分とかからない所ですが。
入口を入るとタブレットが沢山置いてあり、自由に持ち歩き、列品の解説を見ながら拝見できるようになっています。
一階展示室の最初の小さい展示ケースに、楽家二代常慶作:黒楽茶碗『長袴』が一つ鎮座しています。
「長袴」は裾の長い袴で、殿中の礼装ですので、能でも特別重要な曲のときには着用されます。
一階の長い壁面展示ケースの最初は三代道入作:黒楽茶碗『須磨』、
その横は四代一入作:赤楽茶碗『明石』で、能『須磨源氏』から取材されています。
その二碗の間の少し『須磨』寄りに、光勲作:河内写『小面』が掛けられています。
『須磨源氏』には女性は登場しませんが、余儀なく暮らす須磨の浦では都の朧月夜の面影が、
そしてその後、移り住む明石では、明石の君との新しい出会いが待っています。
それら光源氏を取り巻く女性の象徴が、この『小面』であろうかと思われます。
またその続きの壁には河内作:『深井』が掛かっています。
能『三井寺』で攫われた子供を探す母親の役の面が『深井』です。
すっきりとしまった相貌は抑制の効いた悲嘆を感じます。
その下には五代宗入作:黒茶碗『三井晩鐘』が置かれています。
次に『姨捨』『姨捨黒』の二碗展示の次に、九代了入作:黒茶碗『喝食』、その上に河内作:『小喝食』が掛かっています。
角を曲がる直前に、六代左入作のよく似た色違いの二碗が展示されています。
一つは赤楽茶碗で『祇王』、もう一つは白楽茶碗で『祇女』。
そうです。清盛に寵愛された姉妹ですが、後に来る仏御前と共に無常を感じて出家してしまいます。
一階の最後は、十四代覚入作:赤楽茶碗『笑尉』です。
美しく、下方部の小さな穴が可愛いこの茶碗が私は好きです。
二階の第二展示室には近江作『童子』、伝徳若作『三日月』、是閑作『慈童』、伝徳若『平太』が、
八角ケースには河内作『今若』『泥眼』、是閑作『山姥』『中将』が、
至近距離で鑑賞できます。
右奥の展示壁には河内作『小面』が掛かっています。
一階に展示されている私が写した「小面」の本歌です。
幽かに青みを帯びて、控えめな微笑は能に登場する乙女たちそのものです。
その下には三代道入作:黒楽茶碗『唐衣』が展示され、この銘は能『杜若』の中の歌から採られています。
「唐衣 着つつ馴れにし 妻しあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ」
この黒楽茶碗は写真で想像するより大きく堂々としていて感動します。
第三展示室の最初に金剛氏但作『景清』が置かれています。
踏み台に載って見下ろせますが、物凄い迫力です。
起伏に富んだ顔の形状、筋張った血管。
これらが間近に見られます。
その横に初代長次郎作:黒楽茶碗『シコロヒキ』が鎮座しています。
屋島の合戦で、景清が三尾谷十郎の兜の錣(しころ)を引きちぎった逸話からの銘です。
次は、長次郎作:赤楽茶碗『獅子』。この御茶碗の色の素晴らしさは私の言葉では形容出来そうにありません。
その上には伝増阿弥作『顰』が掛かっています。
増阿弥が『顰』を打ったのかという疑問はしばし置いといて、じっとご覧いただきたいと思います。
所謂『顰』とは違い、『獅子口』のような相貌です。『顰』は能『石橋』の連れ面として良く使われる訳ですが、
これはそのために打たれたような感を持ちます。
かつて手に持って鑑賞させていただいたときに、赤色が大いなる光沢の中に沈み込んでおり、
その美しさに感嘆するとともに、その技法に思いを馳せたものです。
次に長次郎作:赤楽筒茶碗『三輪』、その上に能『三輪』に使われる、伝千草作『増女』が掛けられています。
茶碗の胴に三輪神社の杉林のような模様が見えます。
この『増女』は何処にもないような相貌です。
微笑まず素朴でちんと存在している感じです。
舞台では素晴らしいと思います。
この横の大きなガラス戸の中は『道成寺』の世界です。
御茶碗は長次郎作:赤楽茶碗『道成寺』で、その上の右に前シテ用の河内作『曲見』、左に後シテ用の古元休作『般若』で、
先の『景清』と合わせて三面が金剛宗家から出品されています。
楽茶碗『道成寺』は、その御茶碗を伏せると釣鐘に見えるところからの銘です。
金剛流では『道成寺』の前シテは『曲見』を使います。
『般若』は金剛宗家の奥様の御実家紀家伝来の面だそうです。
角が少し前に倒れ気味でより凶悪に見え、その根元には血管が浮き出ています。
展示室の最も深い最後のコーナーに小さなケースがあり、
そこに十五代吉左衛門作:焼貫黒茶碗『砕動風鬼』と光勲作:創作面『夜風鬼-角切-』が掛かっています。
楽茶碗には禁じ手とも言われる金銀を施した大ぶりな御茶碗で、
銘の「砕動風鬼」が「姿は鬼だが心は人間」という意味から鑑みても、
一筋縄では解釈できな一椀です。
この御茶碗から打った私の創作面『夜風鬼』も能面打の禁じ手を数多使った面で、
まず左右は大きく捻じれ、歯は乱杭歯、額は右から殴られたようにへしゃげ、
左側には鬼の爪にに引っ掻かれたような真っ赤な筋があります。
初め角がありましたが、楽氏と話し合い切断し、そのままにしています。
完成した面を、最後に角を切り落として、本当の完成と致しました。
これこそ、能面と楽茶碗に通底する美意識ではないでしょうか。
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「2月13日」
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「昨日は観世会館で、復曲能『吉備津宮』を拝見しました。
松岡心平氏(東京大学教授)監修のもと林宗一郎師が復曲されました。
岡山県の「吉備津神社」は温羅(鬼の名前)伝説の鳴釜神事で有名なところですが、
そこが舞台となっています。
釜鳴神事とは、神社の釜で湯を沸かし、釜の鳴る音で吉凶を占うものです。
鳴釜を見てくるよう天皇の命を受け勅使が吉備津宮を訪ねます。
すると庭掃きの老人が現れ、神社の縁起を話してれます。
孝霊天皇の第二皇子いさせり彦が、吉備津火車(温羅)を退治して、
吉備津の名を譲り受け「吉備津彦」となった(つまり吉備津を領地にした)、
その戦いの有様を詳しく語ります。【見どころです】
吉備津彦がこの宮の御神体であり、
そして、庭掃きの老人は神社の地主神「岩山の神」でした。
勅使は神職から鳴釜神事を見せてもらいます。
神職と阿曽女が釜を炊くと大きく鳴動します。
【神職役の狂言師・多賀屋夙生師に味がありました。】
やがて地主神の岩山の神が現れ、
神々しい舞を舞い、
やがて万歳楽を舞い納めて消えてゆきます。
庭掃きの老人(前シテ)は「小尉」出目満茂で清冽な面でした。
岩山神(後シテ)は倉敷・野崎家所蔵の「神体」でした。
神ではあるが、吉備津の地主神であるところの荒神的野趣味も出て、
また退治された温羅の怨念を慰め、鎮める強さも持つ面であったと思います。
私は倉敷の出身者なので、どこか悲しい温羅が好きなのです。」
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「2月11日」
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「織成舘での『ポートランドからのレポート展』も後半に入ります。
4日のギャラリートークには50人近くの人がお出でくださり、
楽しいトーク会になりました。
そこで、少しあがってしまいジャパニーズガーデンでの展示会の様子の話で、
言い忘れたことがありました。
ジャパニーズガーデンではボランティア・ガイドに登録している人が100人以上おられて、
その内の70人ほどの人に初日に集まって頂き、
私から作品解説のレクチャーを約1時間ほど受けてもらいました。
これがボランティア・ガイドの特権で、
作家の話を直接聞き、質問できるのが喜びなのだそうです。
その代わり必ず2日ほどは、会場でガイドをしなければならないとか。
展示会の成功・不成功はこの人たちに掛かっていると、
キュレーターが言っていました。
これは良い話だと思いますが、
私たちの能面展ではどうだろうかとも思いました。
織成舘でも人出不足でとても説明案内が出来ていません。
今後もっと考えるべきでしょうね。」
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「2月2日」
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「西陣・織成舘での『ポートランドからのレポート展』も始まって10日が過ぎましたが、
大寒波到来で来館数は伸び悩んでいます。
4日(日)午後2時から私の「ギャラリートーク」がありますが少し心配しています。
「なぜポートランドで能面展をすることになったのか?」
「ポートランドの街とジャパニーズガーデンでの様子」
「能面・能装束解説」
など話します。
寒いですがご来館お待ちしています。」
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「1月17日」
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「朝から雨です。裏の南天の実が真っ赤できれいですが、そのうち鳥たちに取られてしまいます。
さて、インド旅行の続きです。
大晦日はうるさすぎるパーティー会場で中原先生と少しだけ年越しのビールを飲みました。
隣の席はチベット僧と韓国系スウェーデン人の女性でした。
11時には部屋に帰って寝る準備をして、しばらくしたら花火の音が盛大にして年が明けたと分かりました。
階下はにぎやかですが、そのまま寝ました。
1月1日、午前4時ごろには、先生はいつものように起きて風呂に入り、執筆をしています。
5時半朝食を取らずホテルを出ました。
まだ薄暗い道は昨夜の喧噪はありませんが、あちこちで屋台にたむろして朝食を取っています。
ガンジス河は夜が明けましたが、深い霧で辺りはかすんでいます。太陽は見えません。
ガイドが小さな手漕ぎ舟に案内してくれます。漕ぎ手は14才の少年です。
数隻の船をかわして上手に沖に出ていきます。ガートの上は古い煉瓦造りの寺院か宿か貧民窟か分かりませんが、
かすんで並んでいます。ガートは84ヶ所あって数百メートもありますが、焼場があるのは二ヶ所だけです。
先生は写真を撮りまくっています。私はカメラをデリーの空港で忘れたので、スマホで撮ったりしながら茫然としていました。
舟が接近して来て、バケツの小魚を売りに来ました。それを買って流すと死者の供養になるのです。
去年は林喜右衛門先生・大倉聖一先生・重広さん・藤木さん・義兄など本当にお世話になった方々が亡くなられたので、
魚を買って流し、手を合わせて拝みました。そして、もう捕まらないようにと魚に言っておきました。
一つの焼場では綺麗な布に死体が包まれて置いてあったので、これから焼くのだと思いました。
一番下流で、大きなマニカルニカ・ガートの焼場では灰を河に掻き出していたので焼いた後だと思われました。
ガイドの言うには、指輪や入れ歯の金を探しながらしていて、役得なのだそうです。
河下で下船してガートを歩きました。ここがこの旅行のメインなので、午前中の予定はすべてキャンセルして、
ガンジス河の辺を二人で歩きました。何しろ二人しかいないのですからガイドも言いなりです。
ガンジス河で焼かれて河に流されると輪廻から解き放されると考えられています。
その為に遠くからきてガートの上の建物で死を待っている人も多いとか、
少年少女から老爺老婆まで、沐浴しています。
これほどすべての民衆から疑うことなく崇められている聖なる河は地球上どこにもないと思うと、
感動が湧いてきて、最後に心からの合掌をしてガンジス河を後にしました。
ヴァナラシからデリーへの飛行機は霧で6時間待ち。デリーから来た時も同じだった。これがインドです。
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「1月16日」
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「今年もはや半月が過ぎてしまいました。年末27日からインドに8日間行って来ました。
デリー・ジャイプール・アグラ・ヴァナラシの旅です。9時30分成田で俳人・中原道夫先生と落ち合い、
すぐ搭乗手続きし、旅行保険に入りました。エア・インディアでデリーまで約10時間のフライトです。
デリー空港には旅行会社の通訳のサンジェ氏が迎えに来ていました。
ここで、このツアーは中原先生と私の二人だけと判明しました。ニッコリの二人。
早々、サンジェ氏をサンチャンと命名して、旅の始まりです。
スズキの乗用車に運転手・通訳のサンチャン・先生・私の4人で、まるでリッチな個人旅行です。
水は硬水なので飲めば下痢するそうで、ペットボトルの水を、しかも開けるときカチッと音がする未開封のものだけです。
食事は基本的にカレーで、ナン・インド米を食べました。まあまあ美味しいです。
中原先生は2度目のインドなので免疫があるそうで、生野菜も果物のスイカ・パパイヤも食べていました。
地ビールの「カワセミ印ビール」は美味しいです。
観光地はどこも素晴らしいに決まっていますが、一番印象に残ったのはやはりインド最高の聖地ヴァナラシですね。
31日の夕刻、ガンジス河に行きました。車・バイク・三輪車・三輪自転車(人力タクシー)・自転車・人・牛・犬が、
道に溢れて、ぶつかり、追い越し、クラクションを鳴らし続け、乞食が付きまとい、うずくまり、寝そべり、這いまわり、
物売りが両脇に犇めき、匂いが濃く臭く、ここは毎日この状態なのだそうです。
車を乗り捨て、この通りを歩いてガンジス河に向います。すると、石段が現れます。これがマニカルニカ・ガートです。
ガートは階段のことで、ヒンズー教の信者がガンジス河で沐浴をするためのものです。
今は乾期なので、階段は広く長くあります。
その階段に、サドゥー(聖者)がいました。何人もいますが、大方は観光客から撮影代を稼ぐニセ者ですが、一人本物がいました。
髪の毛も髭もぼうぼうで、真っ裸です。全身を白い土か、灰で白く塗っています。
4人の弟子を連れてただ座っていました。目が鋭く普通ではありません。ニセ・サドゥーは目で分かります。
何万人と集まってヒンズー教の儀式が始まります。
賑やかよりうるさいに近いでしょう。
沢山の舟に人が満載で、儀式を見ています。
儀式が終わると混雑がひどいので、早めに帰路につきましたが、
それでも、来るときより人が増えていて、階段に乞食の列があり、
よく見ると、手足が言葉で書けない状態です。
どうやってここに来たの?
ホテルでは、金持ちが着飾って、大音響の音楽で、ニューイヤー・パーティーをしていました。
元旦の早朝も、ガンジス河に行きました。
つづく。」
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「12月6日」
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「もう師走になりました。まだ仕事は残っていますが、年末から俳句の中原道夫先生とインド旅行に
行くことになりました。
インドに行くにはビザが必要ということで、大阪インド領事館に申請しに出かけたのですが、
これが大変でした。
いきなり受付のインド美人がスマホを出すようにというのです。
なんとスマホの「India
VISA online」から自分で申請するのです。
質問はすべて英語で、受付女史の助言を受けながら、電子辞書を引きながら、
格闘すること3時間半、やっと提出できました。
ぐったりです。今度は絶対に観光業者に頼みます。
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「11月25日」
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「ポートランド在住の清水先生からメールが届きました。
嬉しい内容でしたので、ここに転載させていただきます。
『大月光勲 様
シアトルから客が四人感謝祭を一緒に過ごすべくポートランドに
二日前訪れました。皆してきょうは日本庭園にうかがいました。
何と『能面と能衣装』の展示場所に長蛇の列が待っていて、係りの
人に此の所何人位の人が入っているのか尋ねました。何と毎日
平均二千人だそうです。会場が満員にならないように入場人数を
制限して居りましたが、みな一生懸命に鑑賞していました。
以上お知らせ迄。』」
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「11月19日」
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「真如堂へ吟行。
久しぶりに句友たちと白川銀閣寺に集合し、
歩いて真如堂へ行くと、
門前の道を西に入ったところに樹齢500年と言われる白山茶花が咲いていました。
古い民家の庭から屋根よりも高い大きなこんもりした木に葉よりも多く花が咲いていました。
まさに満開で見事としか言えません。
山茶花の大木賤家を引き立てて 光勲
真如堂も紅葉の真っ盛りで、大勢の人です。
心の中までもみじ色に染まりそうでした。
寺の裏の墓所には、
斉藤利三(明智光秀の家老・春日局の父)の墓石、
そのすぐ横に、海北友松(絵師)の墓石がありました。
なぜか疑問に思い帰って調べて驚きました。
友松は槍で攻め入り、
謀反人の利三の遺体を奪い返して厚く葬ったそうである。
知らなかった。
少し離れて、向井去来(俳人・松尾芭蕉の弟子)の墓石がありました。
そこから、眺めれば遠く落柿舎のある嵯峨野の辺りに冬日が差していました。
眺むれば嵯峨野の辺り冬日射す 光勲」
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「11月17日」
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「ポートランドでお世話になった清水先生の孫弟子のファビエンさんが遊びに来ました。
彼女はスイス・チューリッヒの生まれで、ハーバード大学から、
京都大学に来て日本建築に関する博士論文を書いているそうです。
清水先生がプリンストン大学で教えた弟子の弟子なんですね。
ドイツ語・フランス語・スペイン語・英語・中国語・韓国語、そして日本語に堪能だそうです。
それでいて気さくで綺麗な人です。
こういう人を国際的と言うのでしょうね。
清水先生からも頼まれたのでまたお出でいただいて色んな話をしたいと思います。」
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「11月14日」
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「はや、ポートランド・ジャパニーズガーデン『能面展』もオープニングから一か月が経ちました。
あっと言う間ですね。お陰様で、入場者数は例年の1.5倍だそうで安堵しています。
11月3日早朝4時40分にクラスメイトの清ちゃんから、大倉先生(高校の担任)危篤のメールが入り、
慌てましたが、それでもそれほどではなどと思い、朝食・仕事の段取り・身支度をして、
倉敷駅に着いたのが、9時過ぎでした。しかし、もうすでにお亡くなりになられていました。
1時間遅かったそうです。まだ、頭頂部が温かく生きておられるようで・・・・。
ポートランド土産のTシャツを胸にかけて、「ご心配ばかりおかけしてすません。ありがとうございました。」と手を合わせました。
また、大切な人を失いました。」
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「10月24日」
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「ポートランド・レポートの最後にそもそもなぜポートランドで能面展を開催する運びになったかをお話します。
3年ほど前に、ポートランド在住のプリンストン大学名誉教授の清水義明氏(日本美術史)が京都工芸繊維大学で短期講義をしにお出でになっていました。
奥様のメアリーさんが街を散歩していて、私がちょうど西陣・織成舘で開催していた能面展のチラシを手に入れて帰り、マンションのトイレの壁に張り付けたそうです。
それを見ていた清水教授がチラシの写真の翁に興味を感じて織成舘に見に来てくださいました。
その時、私は会場を留守にしていましたが、織成館の金田氏が丁寧に対応して下さり、私の連絡先を渡してくれました。
後日、清水教授ご夫妻が工房にお出でになり、私の能面を高く評価して下さり、「実はポートランドのジャパニーズガーデンにお招きしたいのですが・・・」ということになったのです。
こんなこともあるんですね。」
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「10月23日」
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「ポートランドの10月11日は終日自由でしたが、肌寒く風邪を引きそうだったのと、疲れてもいたのでホテルで昼寝などして過ごしました。
12日は元気を取り戻し、昼頃到着の河村晴久師と樹下師と織成舘の金田氏をお迎えし、共にジャパニーズガーデンに行きました。
まだ会場は展示の途中で、特に装束の展示が難しく、金田氏の大活躍で無事展示が済みました。
ライティングはプロが来ていましたが、能面は初めてなので、影の出来方に色々とクレームを出しました。
その後、後着の吉浪師、田茂井師と合流。
13日は開幕前日のレセプションがありました。多くのジャパニーズガーデンのパトロンの方々にご挨拶。
14日はいよいよ『心の鏡:大月光勲能面展』の開催です。
夕方5時から河村先生御一行の能レクチャーがあるので4時に会場へ行くと、
大勢の人でびっくりしました。能面展のパビリオンが入場制限したとかで、二度びっくりです。
河村先生のレクチャーはご自分で英語の説明をして、装束と面をかけて舞うもので、大変好評でした。
15日は私の面打デモンストレーションです。
まず、日本美術史家の清水義明教授が能面の解説をして下さり、その後に私が面打をし、そ
の手元をカメラで撮り、大きなテレビに写してくれました。
会場は100席あり、すべて予約でいっぱいでした。質疑応答も盛り上がり、なかなか閉会できませんでした。
私はあと五日間ポートランドにいて、帰国しましたが、この能面展は12月3日まで開催されています。
もし、ポートランドへ行かれる方がいらしゃいましたら是非お立ち寄りくださいますようお願い申し上げます。」
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「10月22日」
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「選挙に行ってきました。この選挙は重要ですが、如何なる結果が出るか心配です。
ポートランドの話ですが、なぜポートランドと言う名前になったかご存知でしょうか。
二人の大地主がコインスト(コインを投げ裏表をあてる)で勝った方が出身地の地名を付けることになり、
3回中2回当てた、コペティグローブが勝利し、メイン州ポートランドから名前付けられました。
ここで用いられたコインは今日「ポートランド・ペニー」の名で知られ、オレゴン歴史協会の本部に展示されています。
何かアメリカらしい逸話ですね。
10月10日。朝10時にマニエールが迎えに来て、ジャパニーズガーデンに向う。途中に真っ赤な楓の紅葉があり、
今年の初紅葉でした。ジャパニーズガーデンは広大な山の斜面に作られていて、すでに50年を経て、苔むした本格的な日本庭園でした。
今年完成して増築部分の新しいパビリオンは隈研吾設計です。
私の能面展はこの新しいパビリオンの画廊と古い百畳ほどのメインパビリオンで開催されますが、
まだ飾りつけの途中でした。
関係者に挨拶をして、日本庭園をマニエールの案内でゆっくり見学したら、昼食のあとに、
やはりマニエールの運転でポートランド市内観光をさせていただきました。
市内を一望できるゴンドラにも載せていただきました。
美しい街です。」
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「11月20日」
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「10月9日午前10時過ぎポートランド着。
到着ターミナルからシャトルバスでメインターミナルへ。
問題の入国手続きの自動機械も何とかスムーズにできました。
指4本の指紋を撮られました。
入国審査官もフレンドリーですぐ終わりました。
出口にはジャパニーズ・ガーデンのダイアンさんが迎えに来ていて、
すぐに車でホテルへ行き、チェックインの手続きをして頂きました。
車窓からの眺めは、大きな川に大きな橋が架かっていて、
緑の多い街にあまり高くないビルが並んでいました。
遠くにはポートランドの象徴のマウント・フッドが聳えています。
富士山のように単独峰で標高3,429メートルの白く美しい姿です。
(帰国の2日前に五合目まで車で観光にいきました。雪がいっぱい。)
チェックインが済んでもまだ部屋に入れないので、
ダイアンさんが4時頃まで市内観光をしてくださり、
その後、レストランで再会の乾杯を交わしました。
ついにポートランドに来た・・・・という感じ。
・・・・・・つづく。」
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「10月8日」
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「いよいよ明日10月9日午後4時55分成田発のデルタ航空機でポートランドへいきます。
行きは9時間のフライトですが、時差は16時間あるそうで、
着いたら10月9日の午前10時04分だなんて、得した感じ。
長い旅ですから、その間に読む本を探しました。
船戸与一の『満州国演義』を借りに行ったのですが、またまたありません。
誰か私の前を読んでいる人が二人ほどいて、しかもゆっくりじっくり読んでいるようです。
第5巻「灰塵の暦」もなかなかないので、ついに予約してやっと読みました。
しばらく、ほかの本を読んで、今日借りに行ったのですが、
第6巻「大地の牙」は単行本も文庫本もありません。
7巻・8巻はあったのですが飛ばして読めないし、
もうアメリカから帰ったらネットで買いましょうか。
そこで『孤将』金薫著を借りてきました。
秀吉が朝鮮侵略したときの、朝鮮救国の英雄の物語です。
敵は日本軍ばかりではなく、無能な味方軍、頼りない明軍とまさに孤軍奮闘の英雄らしいです。
歴史を反対側から読むのも、ためになることだと思います。
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「9月24日」
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「昨日、大津伝統芸能会館での『三謡会』の発表会が無事終了しました。
私は連吟『百万』のシテと、独吟『藤戸』と、仕舞『敦盛』に出演と、かなり頑張りました。
『敦盛』の面は自作の十六中将を使いました。
今回は、なぜか舞台が狭く感じて、前に出るのがとても怖かったのです。
視野が狭いのは当たり前に承知していましたが、
立ち位置が少し前に出過ぎていたのかもしれません。
前に出過ぎると、柱が見え難くなり、舞台の端が近いので、落ちる危険を初めて感じました。
うろたえると、目が動き面の中の闇を見ることになり、余計に役と自我が離反するのです。
出演までに少し余裕を感じていたのが裏目にでました。
物事は得てしてこんなものですね。
「 能面のなか秋分の闇深し 光勲 」
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「9月3日」
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「河村定期能に行きました。
まず、河村晴道師の解説がとても良かったです。
河村晴久師『遊行柳』前シテ面:小尉 後シテ面:皺尉
皺尉が威厳があり上品な面立ちでした。
したがって能もそのような雰囲気で、
晴道師の解説の通り、法との縁で死後への道が見えてくるような。
その後、林喜右衛門師の代わりに、河村和重師が仕舞をされましたが、
やはり「死」「死後」を考えさせられました。
河村博重師『隅田川』シテ面:曲見
観世流は普通は深井ですが、この日は曲見でした。
この曲見が博重師に似合っていたと思います。
若く、悲しげで、庶民的で、旅の疲れも感じさせるようでした。
久しぶりの河村能舞台を堪能しました。
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「8月21日」
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「8月15日に林喜右衛門先生が逝かれました。
19日が御葬式で、御家元御夫妻も来られて、
大変な参列者でした。
言葉にならない思いを言葉にすれば、
「残念です」「お世話になりました」「ありがとうございます」・・・・・・いっぱいあります。
今度は言葉が止まらないです。
俳句にしました。
はちす散る霞の扇あげ扇 光勲
喜右衛門先生、ありがとうございました。そしてさようなら。
合掌。」
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「8月9日」
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「朝10時にアーウィン氏が私の写真を撮りにきました。
氏はオーストラリア人の写真家で東京に住んでおられます。
もう何度か通って来られて、
私の仕事の色々な姿を撮りたいのだそうです。
「写真家は不思議な仕事ですね。広大なもの、或いは連続する事柄を一瞬に切り取り、芸術にするのだから。」と私が言うと、
「そうですね。そこに『居る』ことが大切なんですよ。」と答えました。
景色も人物も丁度良い時があり、それを写せる瞬間に、そこに自分が『居る』ことが大切だということでしょう。
報道写真などはまさにそうですが、
労を惜しまず足を運ぶということですかね。
私のような職人を撮るにも、そのことは言えるのではないかと思いました。」
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「7月29日」 |
「林定期能へ行く。
「味方団師の『俊寛』は写実的な演技引き込まれました。
『俊寛』の主題は、三人同じ罪なのになぜ自分だけ恩赦されないのかと云う差別感と絶望感でしょうか。
赦免状に自分の名前だけがないので、書状を何度も読むところは素晴らしかった。
『俊寛』の面も良かった。
松本清張が『俊寛の苦しみが人間の最悪の苦しみであろう』と何処かに書いていたのを思いだしました。
林宗一郎師の『百万』は上品で美しい姿でした。
やはり喜右衛門先生に似て来られましたね。
舞いも美しい。子方が御自分の愛娘の彩子ちゃんですから、
子供を探す『百万』の心情は自ずと染み出ますが、
そこを踏ん張ってさらりと演じて見せてくれたと思います。
面は『深井』で、林家に古く伝わる面で、無銘ですが、
鼻筋の綺麗な何処か古風な味のあるとても良い面でした。
田茂井廣道師の『天鼓』は愛らしいい姿でした。
面も可愛らしい『童子』です。
なんといっても早舞いが良かった。
太鼓を打ち、撥を振り回して舞う姿はカッコいいですね。」
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「7月29日」 |
「片山家の能装束・能面展に出かけました。
十七面展示され、中央には龍右衛門作の『小姫』がありました。
もう少し数多く展示して頂ければと思いましたが、
『小姫』だけでもいいくらいだと思い直しました。
会場におられた青木道喜師に、去年演じられた子方を出さない演出での『隅田川』の感想をお聞きしました。
世阿弥と元雅が、亡霊役の子供を出すか出さないかで論争したのは有名な話ですが、
元雅が出さない方がいいと言っていて、私も同じ意見で、子方は声だけでもいいのではと思っています。
子供の亡霊は見物人の想像に任せた方が、より感動的になるのではないでしょうか。」
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「7月28日」
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「鎌倉の御弟子さんたちと茂山忠三郎家を訪問しました。
御当主の良暢師は五世忠三郎を襲名されたばかりで、
お忙しい時期にもかかわらず、笑顔でお迎えいただきました。
沢山の狂言面を拝見させていただきましたが、
なんと言っても圧巻は龍右衛門作の『乙』です。
大胆且繊細で、大きな黒い傷が沢山あるが少しも気にならないし、
深い艶は何百年の風格がありました。
角ほど突き出したおでこ、曲がった鼻と口と舌、三角な目など、
滑稽には、笑顔だけではなく、恐ろしいほどの人間観察があり、
狂言は鋭い風刺芸なのだと改めて思いました。」
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「7月16日」 |
「梅若会定式能を観に東京・東中野に行きました。松山隆雄師の『弱法師』で、私の面が使われました。
知り合いの能愛好者から好評を得たので、一安心して帰宅しました。
往復の車内では、最近お弟子さんのY・Tさんから進められた『魂でもいいから、そばにいてー3・11後の霊体験を聞くー』奥野修司著を読みました。
Y・Tさんは「能の物語に通じるものがあり、こんな思いが能になったのでは」と言うので読んでみるとなるほどと思いました。
私は霊の存在を7分3分で信じているのですが、この聞き書きを読むと「信じる」と「信じない」ではなく、「受け入れる」というレベルだと思いました。
文中で琴君という男の子が、なぜか3歳から御神楽が大好きで、DVDで独習して踊っていましたが、8歳で災害に会ってしまいます。
その後、天井で踊るような足音がしたり、壁で拍子をとるような音が聞こえるようになるのですが、
琴君は子供の頃から、ここには一々書きませんが不思議な子だったようです。
この子を取り上げて『隅田川』のような能が書けるかもしれないと思いました。
震災で荒れ果てた地で我が子を探す母親の前に、霊となった我が子が現れ、神楽を舞って、「探さなくていい。自分は大丈夫だ」と言って消えるのです。
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「7月15日」
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「金剛能楽堂虫干に行きました。舞台正面に「翁」「父尉」「桧垣姥」「増女(是閑)」「孫次郎(河内)」「雪に小面」「小面(龍右衛門)」と並んでいました。
これだけで圧倒的です。この古色と艶は新面では再現できない、ならばもっともっと彫に精魂込めなければならないと思いました。」
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「7月3日」
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「出稽古から帰ってきました。
『鎌倉彫三代展』は素晴らしい作品群で、
長年掛かって丁寧に作られた作品であることが良くわかりました。
翠岳氏の作品はもう国宝級です。小夜子氏の作品も大変迫力があります。
史子さんの作品は「伝統と現代の相克」に茶の湯の美学が注がれていると感じました。
相模原で松山隆雄師に「弱法師」を見ていただきました。
とても気に入っていただき、7月16日の「梅若会能」に使っていただけます。
私も拝見しに行きます。
船戸与一『満州国義演』は第二巻『事変の夜』の中頃まで読み進みましたが、
詳細なデーターとエピソードで大変面白いのですが、
謀略と謀略が絡んで、これほど複雑な事情を孕みながら戦争へ突入していったのかと、
呆然・暗鬱となり、大きな歯車が動き出すと誰にも止められない恐怖を覚えます。
その中で馬賊になった次郎の爽快さが救いです。
帰宅したらしばらく読書どころではなくなりますが、この後、次郎がどうなるか気になるところです。
梅若会
7月16日(日) 1時 梅若能楽学院会館
『弱法師』松山隆雄
狂言『伊文字』野村万蔵
『籠太鼓』梅若長左衛門
『野守』山中?晶
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「6月27日」
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「明日から、鎌倉・相模原と出稽古に行きます。
明日は、移動日ですが、鎌倉に行って『鎌倉彫三代展』を覗きます。
木内翠岳(故)・小夜子・史子の三氏は祖父・娘さん・お孫さんの三代続く鎌倉彫作家です。
ギャラリー『一翠堂』のオーナーでもあり、私は個展の折にお世話になっています。
三人三様の作品を楽しみに出かけます。
新幹線車内のお供は今回は船戸与一著『満州国義演』です。
昭和初期、満州に膨張していく日本の姿をじっくり読みたいと思いました。
浅田次郎著『蒼穹の昴』は中国人兄弟の物語でしたが、
同じ時代を今度は日本人四兄弟から読むことになります。
全9巻ほどあり、たっぷり楽しめ、また今の時代と比べて考えることができると思います。
6月28日~7月3日 10:00~17:00(最終日16時)
鎌倉生涯学習センターギャラリー
『鎌倉彫三代展ー木内翠岳・小夜子・史子ー』
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「6月18日」 |
「京都産業大学のペレッキア先生の案内で13人の学生さんが見学に来ました。
能と能面の歴史から始めて、能面の材料や技法や、苦労話など、
雑談交じりで、2時間ほど話ました。
工房いっぱいに能面を並べて、良い虫干しなりました。
毎年、こんな感じで一般に開放して、いろんな人と話が出来たら楽しいかなと思ったりしました。」
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「6月16日」 |
「パリでお世話になったローランさん・由佳さん夫妻と友人のKさんが遊びに我が家に来られました。
ローラン氏は素晴らしい絵を描く画家であり、
モンマルトルのパリ最古のアトリエでデッサン教室を主宰されています。
しかも、そのアトリエは、ピカソや藤田嗣治・モディリアーニなどが通っていたところです。
1年半前にパリで私はローラン氏からデッサン教室のモデルを頼まれ紋付袴姿で、
有名なモデルのキキが寝そべっていた台上でポーズをとったのです。
そんなことで、親しくなったローラン氏に工房で能面を見ていただき、
17世紀の油絵の技法について、教えていただきました。」
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「6月5日」
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「5月31日から、『遠い太鼓』村上春樹と共に鎌倉・相模原の出稽古に向かいました。
6月2日の鎌倉教室が終わってミルク・ホールを出たところに、
有賀一広・井原奈津子夫妻が待っていてくれて、
奥さんが著した待望の書『美しい日本のくせ字』を賜る。
この日は、鎌倉から相模原への移動日で、その電車の中で『遠い太鼓』を読了する。
私は村上春樹という作家に対して偏見を持っていたらしい。
理知的で近寄りがたい人物ではなく、
ギリシャやイタリアでアパート選びに失敗をして我慢の日々を送ったりしているところを読むと、親近感を覚えてきました。
ヨーロッパの食事やワインの俗の話から、高等な文化論へと展開していく文章は、素直に楽しく胸に響いて来るのでした。
6月4日、松山隆雄師に御注文の『弱法師』を見ていただく、前回より、頬を痩せさせたが若く見えるようにしています。
了解を得たので、これで塗りに掛かれます。舞台は7月の梅若会です。
相模原教室を終えて、小田急相模原から町田、横浜線に乗り換えて新横浜、そして「のぞみ」で京都です。
たっぷり読書の時間があるので、持参の『羊と鋼の森』宮下奈都を読み始める。
新米のピアノの調律師の話であるが、自分の修行時代を思いながら読み終えました。
いい本です。
井原さんの『美しい日本のくせ字』は戴いた直後からパラパラと何度も拾い読みをしてましたが、
いよいよ本格的に読み始めました。
文章が明快で読みやすし、取材や蒐集の苦労をサラ~と書き流すあたりは、偉いです。
本当に日本語ではないようなくせ字があるんですね。でもなぜか美しい。
私はるるちゃんの空を見上げているような『き』がとても好きです。
それから詩もいいですね。
「くせ字練習帳」まであるのですが、私も人後に落ちないくせ字ですから、練習はしません。
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「5月15日」
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「5月9日、三島市の佐野美術館に『林原コレクション・装束と面展』に駆け込みで行って来ました。(5月14日まで)
入り口にいきなり、徳若『邯鄲男』、そして隣の隣が『廿余』で、しかも間近でじっくり拝見できました。
奥はもっと素晴らしく、宝来『宝増』と河内『小面・環』が並べて展示してありました。
『猿飛出』と『小飛出』もいいです。
私が見たいと思う面が最高の状態で展示されているので大感激でした。
どれも素晴らしいかったです。
三島、鎌倉、相模原と長い旅程でしたが、車内は読書を楽しみました。
山本一力『ジョン・マン』の三冊目「望郷篇」が残っていたので持っていきました。
漂流から救助されて捕鯨船での生活・捕鯨の様子などが、
圧巻の面白さで、あっという間に読み終えてしまいました。
アメリカ生活が始まるまでに三冊をようしたのですから、この先どれほどの長編になるのでしょうか?
楽しみです。
『ジョン・マン』の後は恩田陸『夜のピクニック』を読み始めました。
これは『蜂蜜と遠雷』が良かったので読む気になった本ですが、
少し私の趣味から遠いものでした。もう失った感情がいっぱい出てきたのでその部分を増幅して読みました。
数日の出来事をドラマチックに書く手法は同じですね。
でも、3日ほどで読み終えました。
帰りの電車での本がないので大船駅の本屋で村上春樹『遠い太鼓』を買いました。
脈絡のない読者だとお思いでしょが、実は今、彷徨っているのです。
基本は歴史書好きですからね。
5月14日帰宅。」
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「5月3日」
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「第25回光勲會能面展も無事終了しました。
ご来場くださいました多くの方々に御礼申し上げます。
ギャラリー・トークも盛況で、ホットしております。
ここ一週間は忙しくて読書どころではなかったのですが、
山本一力『ジョン・マン』を読み始めました。
ジョン・万次郎は延縄船の「かしき」として乗船し、漂流した後に、
アメリカの捕鯨船に救助される訳ですが、
冒頭から、捕鯨文化論が結構なページ数で述べられています。
思えば、メルヴィルの『白鯨』も冒頭に長い捕鯨文化論があり、
少年の頃に挫折した覚えがあります。
捕鯨はそれだけ夢と冒険のほかに経済や社会の諸問題を孕んでいるのでしょう。
来週は関東に出かけるついでに、三島の佐野美術館の『池田家能面展』に行きます。
旅の供は多分また恩田陸で、『夜のピクニック』になるでしょう。
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「4月25日」
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「明日から光勲會展なので、今日は昼から搬入です。
世相はきな臭くなり、じわじわと不安が広がっていますが、
こんなときこそ文化が奮い立たなければいけないと思います。
恩田陸『蜜蜂と遠雷』を読破。
直木賞で本屋大賞の本を私が批評することはないのですが、
「天才」と決めてしまえば書きやすいなあ・・と思ったのですが。
しかし、面白過ぎて一気に読了しました。
最後に、ピアノコンクールの結果が張り紙のように書かれているのは洒落ています。
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「4月19日」
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最近、時代小説にはまりまして、高田郁(かおる)を読んでいます。
『出世花』『蓮花の契り』から読み始めて、『みおつくし料理帖』シリーズも皆読破し、
『あきない世傳 金と銀』も三巻「奔流篇」まできました。続きが楽しみです。
高田氏の本はよく泣けます。
心も目も洗われる感じ。
次は、少し傾向を変えて、
今話題の、恩田陸を読もうと思っています。
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「展示に向けて」
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平成 29年 3月4日(土)
「4月26日からの展示会に向けて、能面の完成が迫られています。
課題作の『節木増』に七人が挑戦しています。
あの強い横の刷毛目をどうやって付けるか、それぞれ悩んでいます。
節を付けようか、どうしようか?という人もいます。
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1月4日
京都国立近代美術館に行く
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平成 29年 1月17日(火)
『茶碗の中の宇宙』を鑑賞し、
楽吉左衛門さんと金剛永謹御家元との対談を聞いた。
能楽と茶の湯は近い関係にあると御家元が言われた。
楽さんが名品の茶碗の中に「鬼」を感じると言われた。
物を作る人間は心に鬼をもっているとも言われた。
そうだと思った。
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西陣・織成舘での能面展が無事終了しました。
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平成 28年 11月18日(金)
27日間に及ぶ長い会期でしたが、終わってみればアッという間でした。
この展示会の特徴は、海外の人が多かったこと、
日本国内でも、東京や九州など遠くの人が多かったこと、
面打をしている人が多かったことです。
今、紅葉の真っ盛りです。皆様京都の紅葉も堪能されたでしょうか?
乱調の鼓なり来よ紅葉山 木内怜子
胸躍るほどの紅葉であり、
山くれて紅葉の朱をうばひけり 蕪村
その半面淋しいのが紅葉ですね。
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今年も仕舞の発表会が迫ってきました。
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平成 28年 9月21日(金)
9月25日(日)
大津市伝統芸能会館
私は『蝉丸』を演じます。
二年前から、先生にお願いして能面を掛けて演じさせていただいています。
能面師の我儘ですが、いろいろと思わない発見があり、とても勉強になります。
能面を掛ければ忘我になりやすい、と思っていましたが、
その反対で自我がもっと出て来て困っています。
自分の顔と別の顔を持つことは、より心理的に複雑になることです。
今年は「逆髪」を掛けて頑張ります。私の出番は三時前後です。
お近くの方はお出かけください。
三井寺もすぐ近くですし。
大月
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「6月19日梅若定式能に行く」 |
平成 28年 6月24日(金)
「久しぶりに東中野の梅若能楽学院会館に出かけました。
『嵐山』シテ:土田英貴師・『杜若』シテ:松山隆之師・『藤戸』シテ:梅若長左衛門師でした。
土田師の『嵐山』の後シテは「大飛出」で、豪快に開いた口が大迫力で、颯爽と舞い上げました。
「大飛出」は屈託なく明快な表現で良いのだと思いました。
松山師の『杜若』は立ち姿が美しかったです。面も美しい「若女」で、おそらく入江美法作のものと思います。
写真集では大味な感のする面ですが、舞台では情感豊かなお顔でした。特に橋掛りでは最高でした。
やはり、能面は舞台で見ないと分かりません。
梅若長左衛門師の『藤戸』は、前シテが「曲見」でした。
淋しげなお顔ですが、「子を返せ」と佐々木盛綱にぶつかるように迫って行く場面は迫力でした。
後シテは「痩男」でした。
地獄の苦しみの顔は戦争の残酷さそのものと思いました。
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「『鐵門』を観る」 |
平成 28年 6月8日(水)
「6月5日 京都観世会館で復曲能『鐵門』を観能しました。俳人・高浜虚子の創作で100年ぶりの復活だそうです。
概要を観世会館発行のチラシから抜粋します。
『鐵門は、俳人・高浜虚子(1874~1959)が、大正4年の暮れ、ベルギーの劇作家モーリス・メーテルリンクの戯曲
「タンタジールの死」に構想を得て、わずか2時間半で書き上げ、今からちょうど100年前の翌大正5年(1916)の
1月6日、鎌倉能舞台にて試演された新作能です。
そこには、虚子の、幼くして亡くなった愛娘六(六子)への哀惜の念が込められ、生と死を分かつ絶対的な存在と
それに対する人間の恐れが、鉄の門に象徴され見事に描かれています。』
あらすじは簡単に書けば次のようになります頃は秋、諸国一見の僧が善光寺の暗穴道に案内される。
その暗闇の中から美しい姫(ツレ:分林道治)と老僕(シテ:青木道喜)の幽霊が現れる。
そして、姫が死の使い(小笠原匡)に奪い去られて鉄の門の中に入ってしまつた有様を再現してみせる。
使われた面は姫が「万媚」で、老僕、衛門の助は「頼政」、死の使い、悪尼は「山姥」(梅若六郎家の赤鶴作の写シか)であった。
舞台中央に姫が座り、その後ろで衛門の助が槍を抱え、葛桶に腰かけて姫を見張っている。
衛門の助は姫に恋心を抱き、命を賭して衛ろうとしている。姫を見つめる「頼政」の目がとても良かったです。
懸命で切なげに見えました。しかし、死の使いの悪尼は静かに現れ、無言の内に姫を連れ去ってしまう。
この時の「山姥」は本当に気味悪く、ドキドキしてきました。
黒く長い羽織に、頬被りをしているのである。黒い羽織を脱ぎ、長く折り畳み、それで姫をポンと叩けば、
姫はすーと立ち上り、鐵門即ち死の門へ誘われて行く。最後に橋掛かりで、悪尼がドンと足踏みして
(この時私は飛び上がりそうになりました)、羽織を姫に被せると、凄まじい速さで鐵門の内に入ってしまう。
終始無言の場面であるが、恐ろしい心に残る場面でした。
姫の不在に気が付いた、衛門の助が追って行くが、重い鐵門に阻まれてしまう。押しても、体当たりしても、開かない門。
舞台に門の造り物は無いが、シテの青木師がパントマイムで見事に表現された。
姫の死を詩的にドラマチックに表現されていて、深く美しい能だと思いました。
また、使用能面を「頼政」と赤鶴の「山姥」によく決定されたものだと、感心し感動したのでした。」
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お礼 |
昨日でパリ・鎌倉・京都の一連の『伝統と創造』能面展が終了しました。
京都展は『創作面の世界』でしたが、なかなかの反響で、
特にモザイク彩色の『怪ノ女』と角切りの『夜風鬼』に話題が集中しました。
創作面15面すべての画像を掲載した、解説冊子も好評でした。
お出で頂いたすべての方々に深く感謝申し上げます。
大月光勲 拝
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「さあ、いよいよ」
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平成 28年 4月5 日(火)
「鎌倉個展無事に終了しました。
本当に沢山の方がにお出で頂き、大成功でした。
会場が何度満杯になったことか・・・・・。
ありがとうございました。
さあ、いよいよ京都の『創作面展』へ向けて準備です。
創作面は数は少ないですが、中身は濃いですよ。
過去に舞台に使用されて、それぞれに納まっているものもお借りしてきました。
12ページの写真付き解説も作り、無料配布します。
この展示会は二度とできないと思います。
是非、ご来場ください、お待ちしています。」
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「永青文庫に」
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平成 28年 2月18 日(木)
「2月10日に永青文庫の『狂言を悦しむ』を鑑賞してきました。
椿山荘の横の路に入ると、一気に時代が明治に遡った感を抱き、嘗て佳き日本の余裕を感じる風情です。
細川家の屋敷内にある美術館は、森の中の洋館造りで静かでした。
4階の展示室に入ると、私の会いたかった黒式尉が迎えてくれました。
頬の渦巻きも鼻梁脇の皺も、眉毛の垂れ具合も最高の出来でした。
狂言面の数は16面で多くはありませんが、勉強になりました。
特に、武悪二面をじっくり拝見して、大きな収穫がありました。
帰りに、ある人からこんな話を聞きました。
『狂言を悦しむ』の前に、『春画展』を開催していたそうですが、
その時は入場者が列をなして、大混雑だったとか。
それに比べ、今回は閑散と淋しいとのこと。」
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「1月6日 能『金札』観能 」
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平成 28年 1月 12日(火)
1月6日に国立能楽堂定例公演『金札』(シテ・桜間右陣)を観能しました。
当日券を求めに受付に行くと、満席とのことでした。
キャンセルがあれば入場できるとのことなので、しばらく資料室で展示を観て過ごしました。
開演5分前に再び受付に行くと、やはりキャンセルは無いとのことでした。
『金札』の舞台である金札神社は、伏見桃山駅の近くにあり、句会の会場に近いので、
時々お参りしています。小さいながら、厳かな雰囲気のお社です。
ところがまだ能『金札』を観たことがなかったので、鎌倉教室に出かけるついでに、
遠出して国立能楽堂に来たのですが残念でしたと・・・・あきらめて、門を出て、
横断歩道を渡っていましたら、後ろから若い女性が追いかけてきて、
「友人が来られなくなったので、どうですか?」と券を分けてくださいました。
最後の最後に、天津太玉神が手を差し伸べてくださいました。
お名前も存じ上げませんが、あの時の若い女性に感謝申し上げます。
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「パリ個展」
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平成 27年 12月 8日(火)
「テロで開催を危ぶみましたが、17日のオープニングには150人もの人にお出で頂き大成功でした。
鈴木庸一大使と樋口義広公使もお出で下さり大変光栄でした。
私の仕舞『弱法師』も好評で二回公演しました。
それをご覧くださった画家のローランさんからモデルを
頼まれて、
後日モンパルナスにお邪魔するというハプニングも生まれました。
沢山の巡り合いがあり、楽しい思い出と希望を頂
きました。
応援して下さった方々に感謝申し上げます。」
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「あと10日」
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平成 27年 11月 7日(土)
「パリの個展開催まであと10日となりました。
テーマは『伝統と創造』です。
樂吉左衛門さんから、
『伝統的な能面をきちっと打てることも大切だけど、
創作面を意欲的に制作している姿勢も大切なので、
創作面を五面持って行ってください。」
と宿題をいただいていました。
結果、創作面を7面持って行きます。
かなり斬新なものもあります。
パリの人がどんな反応をしてくれるか楽しみです。
伝統は大切な遺産です。守らなければなりません。
創造は伝統への上積みです。少しずつ積み上げなければなりません。
頑張ってきます。」
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『面をつけての仕舞『弱法師』」
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平成 27年 9月 28日(火)
「昨日謡と仕舞の発表会でした。
観にお出でくださった方に感謝申し上げます。
面をかけての仕舞『弱法師』は一瞬頭の中が真っ白になる場面がありましたが、無事舞い納めました。
面はもちろん自作の『弱法師』ですが、正直なところ今面が曇っているのか、
照っているのか分らないまま、ただ面を信じて舞うしかありませんでした。
観客の方は皆ほめてくださったけれど、植田先生からは、照りすぎが所々にあったとのご注意を頂きました。
『面即顔』になるにはどれほどの稽古が必要なのであろうか。」
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『弱法師』
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平成 27年 8月 25日(火)
今日は昼から仕舞の稽古に出かけます。
『弱法師』を習っています。
カマエやハコビが盲目のようにみえるには、
まだまだ稽古が足らないようです。
11月18日のパリ個展のオープニングで演じようと思っています。
しかも、能面『弱法師』をかけて。
パリの人に動く能面を見ていただきたくて、稽古をしています。
その前に、9月27日(日)に
大津市伝統芸能会館での、
三謡会発表会で演じます。
良かったら見に来てください。
3時過ぎ頃です。
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平成 27年 7月 26日(日)
北方領土に文化交流で行ってきました。
子供が元気で大賑わいでした。
会場は満員で、能面の反響はかなりありました。
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「観音の裏の日陰も芽吹きけり 光勲」 |
平成 27年 5月 21日(木)
「まだ春浅い頃、いつも電車の窓から見上げている大船観音に行ってみました。
急坂を登り、長い石段を上っていくと、正面に圧倒的な大きさで、綺麗なお顔の観音さまが
立って居られました。
観音さまの周辺は回遊式の庭園になっていて、後ろに回ると、日陰の雑木も草も春の芽を
伸ばしていました。
観音さまの御慈悲はこんなところまで、漏れなく及んでいるのでね。」
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「 黙念と真蛇の面(おもて)花の雨 光勲 」 |
平成 27年 4月 16日(木)
「第23回光勲會能面展も無事に終了しました。
多くの方々にお出で戴きまして、心から感謝申し上げます。
桜の満開期に始まりましたが、連日の雨で気温も冷え込み、少し残念でした。
11日(土)は会期中でしたが、私は会場を抜け出して、
「京都春の梅若能」に行って来ました。
井上和幸師『百万』と梅若玄祥師『小鍛冶』でした。
『百万』は「深井」で若い感じの母親が美しかったです。
『小鍛冶』は「白式」と云う珍しい小書きで、
前シテは「童子」を使わず、「小喝食」で目から鼻に抜ける利発さを感じました。
後シテは夜叉作の「小飛出」、これは梅若家の有名面です。
写真集で見ると、剥落も多く古びているのですが、舞台では生き生きとして、
少しも古びて見えませんでした。
そこが名品の謂れですね。」
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御所の近衛邸跡の枝垂桜が咲きました。
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平成 27年 3月 29日(日)
やっと春です。
昨夜は友人の吉田幸助さんが出演する文楽『義経千本桜』と『曽根崎心中』を観て来ました。
幸助さんは人形使いですが、「人形使い」と云う表現は違うのではないかと感じました。
人形と人間がまさに一心同体で、頭部と胴体の人、手の人、足の人の三人がよどみなく、
人形に身を寄せて舞うように、演じられる様は、もう一つの生命体に見えてきました。
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唐織も能面も待つ牡丹雪 光勲 |
平成 27年 2月 5日(木)
一ヶ月の長きに及ぶ織成舘での『寿ぎの能装束と能面』も無事に終了しました。
厳しい寒さの中、多くの方々にお出で戴き、心より感謝申し上げます。
唐織も能面も待つ牡丹雪 光勲
よく雪の降る一月でした。
雪の中、織成舘へ急いだことも何度かありました。
開場前のまだ寒い展示室に入ると、
三領の唐織と私の能面たちが待っている。
それは、私をではなく何かを・・・、
そんなことを思いました。
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「能面美し」
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平成 26年 11月 24日(月)
「一つの能面が、能の進行に連れていろいろな表情に変化する様を見ていて、
時間の経過を忘却することはよくあります。
台や棚に置かれて鑑賞される彫刻作品と違い、
演能に使われる能面は、主人公の心情を映して、
喜怒哀楽の間を揺れ動き、我々を感動させてくれます。
世界に仮面のない国は無いそうですが、
日本の能面ほど芸術性に秀でた仮面は無いと思います。
それだけに、特殊な製法や、決まり事や美意識があります。
それらは西洋化した現代の日本人には面倒なことかもしれませんが、
実はそれこそが日本の文化財産なのではないでしょうか?」
相模原市文化協会会報『さがみはら』10月号 掲載
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「長き夜の子無き家庭にある玩具 光勲」
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平成 26年 10月 26日(日)
「季語は「長き夜」で秋です。
子供のいない我が家などは、ずっと夫婦二人で過ごしてきたのですが、ふと寂しさを感じるのはやはり秋の夜長です。
こんな家庭でも玩具は何かしらあるもので、けん玉や歌留多やトランプやビー玉など・・・・・鳩笛など。
どれもなぜか虚しいのは秋のせいなのか・・・・・年齢のせいなのか・・・・・。」
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「 夜能の長き居曲(いぐせ)や萩零れ 光勲 」
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平成 26年 9月 28日(日)
9月19日~21日に神戸・生田神社で神戸女子大学のオープンカレッジの受講生と能面展を開催しました。
多くの方々にお出でいただきありがとうございました。
19日には生田薪能が行われ、久保信一朗師と藤井丈雄師の「小袖曾我」で、とても見ごたえがありました。
舞台の後ろには白萩が沢山咲いていました。 」
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「 川風と山風出会ふ岩たばこ 光勲 」
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平成 26年 9月 28日(日)
「6月の末、鎌倉での個展の後に箱根で休息しました。
宮ノ下駅から早川に急坂を下りていくと、川には大きな岩が沢山あって、なかなかの秘境でした。
途中の道の山側の斜面に、岩煙草の薄紫の花がいっぱい咲いていました。
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「 古風鈴当季に入りて鳴り高し 光勲 」
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平成 26年 7月 19日(土)
「鎌倉の個展は大盛況裡に終えることが出来ました。ありがとうございます。
懐かしい人との再会や新しい人との出会いに感激し、感謝しました。
掲句の季語は「風鈴」で夏です。去年から仕舞い忘れている風鈴が、
秋・冬・春と心細く鳴ってはいたが、「当季」つまり本来の季節・夏になって、
いよいよ調子を上げて、その音も大きくなって来た、と言うことです。
この句には、機を得たら大いに飛躍すべしと、
機を得るまでは能く耐えるべしの
二つの意味合いがあります。」
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「 逢へたあへた翁がふたり花の下 光勲 」
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平成 26年 6月 23日(月)
「もうすぐ鎌倉での個展が始まります。(6月26日~30日)
能面が縁で、懐かしい人や新しい人と会うことが出来ます。
掲句もそんな句で、季語は「花」、即ち「桜」です。
桜が縁で二人の翁がやっと逢うことが出来たのです。
西行と芭蕉でしょうか?二人とも桜が好きでした。
白式尉と黒式尉ならどうでしょう?
この二人は決して同時に舞台に登場しませんが、
桜の下ならありえるかも知れません。
桜にはそんな魔力を感じます。
白南風や目じりの皺に滋味深め 光勲
この句も翁のイメージです。
白南風は梅雨明けの頃の南風ですので、
個展の頃にはまだ早いのですが、
黒南風では滅入るので、
気分はさっぱりと白南風でありたかったのです。」
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「 東風吹くや耳に地獄と笊のあり 光勲 」
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平成 26年 5月 22日(木)
「葵祭も終わりました。
我が家のフタバアオイも、
名前のとおり二枚の葉の間に可愛らしい花が、
俯いて咲いていましたが、だいぶ萎れてきました。
徳川家の家紋のデザインになっている葉の方は、
旺盛に茂り、青々と陽に輝いて美しいです。
さて、掲句の季語は東風(こち)・春で、
『馬耳東風』に引っ掛けて、詠んだ句です。
東風が吹けば春めいて、人は喜ぶのですが、
馬は無関心でなんの感慨もありません。
そこで、何を言われても心に留めず、
聞き流していまうことを『馬耳東風』と言います。
しかし、耳にも馬耳と同様の笊耳・籠耳といった、
聞いたことをすぐ忘れる耳もあれば、
人の秘密など逸速く聞いて、
一度聞いたらいつまでも忘れない地獄耳もありますよと、
おどけています。 」
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「 梅の香や面打日和戸を閉てて 光勲 」
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平成 26年 5月 11日(日)
「第22回光勲能面會展には、多くの方々にお出で戴きありがとうございました。
連休も終わり、これから六月の鎌倉個展に向けてしっかり準備しようと思います。
掲句は「面打日和」という、私の造語が眼目になっています。
天気も良く梅の香がして気持ちがいいので、戸を閉てて面打に専心しようという訳です。
それも、また楽しいことなので・・・・・・・・。
これから六月までしっかり面打しないと、という意味合いもあって。
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「東雲神社へ」
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平成 26年 4月 10日(木)
「愛媛県松山市東雲(しののめ)神社へ行ってきました。
東雲神社には旧藩主久松家の能面・狂言面が百九十五面も
奉納されているそうです。
毎年四月四日に神能として「東雲能」が開催されており、
その四日から六日の三日間、宝物館である「文華殿」で
展示公開されていますが、今年は武具甲冑が中心で、
能面は笑尉・童子・喝食・若男の四面だけでした。
ガラスケースの下方に置かれていたので、目線の高さに
掛けて展示して頂ければもっと良かったと思いました。
若男と童子は良品と思いましたが、童子は修復が必要です。
買い求めた冊子には、赤鶴「大獅子口」・越智「童子」・河内「中将」
・是閑「泥眼」などが見受けられます。作者不詳のものにも、秀作が
見られるので、これらが一堂に展示される日を待ち望みます。
御能は御先祖が松山藩のお抱え能大夫であった、
宇高通成師(金剛流)『花月』でした。
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「 迷ひなば疲れきるまで歩く春 光勲 」 |
平成 26年 3月 13日(日)
「近頃は運動不足を嘆いているのですが、以前は良く歩いたものです。
進路に悩んだ時も、野山を彷徨いました。
能面修行に入る前は、旅を沢山しました。
修行に入ってからも、よく東山を歩いたものです。
思えば、そんな時はいつも春だったような気がします。」
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≪町屋には茶渋のごとき寒さかな 光勲≫ |
平成 26年 1月 26日(日)
京都市内も、1月19日(日)の朝は雪が積もっていました。
とにかく寒いのでこんな句を揚げてみました。
我が家は路地裏の、格子戸のある古い小さな町屋なので、
隙間風が多く、玄関脇の小部屋などは戸外と何ら変わらないほど寒いです。
寒さは腰や背に、まるで茶碗に付着した茶渋のように貼りついてきます。
玄関の戸も、窓も木造りで、階段箪笥もあり、私の大好きな風情ですが、
冬のこの時期だけは辛いのであります。
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≪ 死人花しろしびとばな死の標 光勲 ≫
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平成 25年 12月 14日(土)
「今年もあと半月ほどとなりました。
まだまだ仕事は残っていますが、
今年も忙しく、且つ有意義な一年だったと思います。
今年最後の作品は「生成」になりました。
年頭に、一年に打つ能面の数と種類を大体想定します。
しかし、事の成り行きやヒラメキで思わぬ方向に行くものですが、
「生成」を打ちたいという気持ちになるとは・・・・・。
人でなくなり、鬼にも成り切れない、「生成」を。
掲句は死の文字が三つも出て、
年末に縁起でもないと思われるでしょうが、、
年末になると喪中葉書が何枚か届いて、
思い掛けない知人の死亡を知らされたりもします。
ですから、年末は死を考える時期だとも思うのです。
死人花は曼珠沙華のことで、秋の季語です。
この花には、他に「幽霊花」「捨子花」「狐花」「天蓋花」などの異称があります。
今年も銀閣寺道の疎水べりに長く連なって咲いていました。
ここにはなぜか白い彼岸花が沢山交ざっています。
その光景はまるで死への道標のようにも見えたのでした。」
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「 油橋詰町いはずもがなの暑さかな 光勲 」 |
平成 25年 11月 17日(日)
「立冬を過ぎてから、急に寒くなり紅葉も一気に始まりました。
散歩の途中の御所の大銀杏も黄色くなって来ました。
もうすぐ、大樹に大群の黄色い蝶が止まったような様相になります。
さて、掲句は毎度ながら季節遅れですが、季語は「暑さ」で夏です。
今年も暑さは尋常ではなく、日本中が沸き立つようでした。
我が家のある油橋詰町も言うまでもなく同様でした。
そもそも、「アブラハシヅメチョウ」という読みが暑苦しいのです。
もっと書けば「油小路通中立売上ル油橋詰町」です。
「油」が二度も出てきて、まるで油地獄です。
しかし、大好きな最高の町内ですよ。」
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「薄暮かな車窓に映る青田・吾 光勲 」 |
平成 25年 10月 27日(日)
「 相模原光勲會能面展は、沢山の方々にお出でいただき、盛況裡に終えることが出来ました。
厚く御礼申し上げます。
ほんの数日前まで、あれほど暑かったのに、急に冷え込み秋らしくなって来ました。
日本は四季の変わり目に、えも言われぬ情緒があったはずですが、
まるで、舞台の書割を張り替えるような、季節の変化は許せない感さえします。
掲句は毎月一度、相模原へ行った帰りの電車中からの景で、
季語は「青田」で夏、まだ暑かった頃の句です。
薄暮の外の明度と電車の中の明度がほぼ同じくらいで、
青田の風景とガラス窓に映る吾が姿が、二重映しに見えたという、
微妙なところを詠んだものです。 」
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「小面の初口紅や秋なかば 光勲 」
角川学芸出版『俳句』9月号
「結社歳時記」掲載
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平成 25年 9月 21日(土)
「やっと朝夕涼しくなってきました。
地球温暖化もいよいよ進み気象現象は末期的な兆しを提示していると思われます。
福島の原発汚染水流失の問題も、深刻過ぎて語るのも厭わしいほどです。
それでも、私の出来ることは能面を打つこと・・・・です。
もう何十面かの小面を打ち、そしてその小面としては初めての口紅を施す。
美しき秋の半ばの嬉しいひと時も詠みました。
いつ地震や大嵐が来るとしても能面を打って居る、それが私の生る姿勢です。」
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「 少年の唇蒼し雲の峰 光勲 」
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平成 25年 8月 16日(金)
「今日は五山の送り火の日である。
午前中は万媚の毛描きと化粧を施し、昼食を挟んで古色の下地をしてから、
清水寺の近くへ仕舞と謡の稽古に行った。仕舞は「雲林院」、謡は「土蜘蛛」の頼光をしている。
六時に終わっていつもなら飲み会に行くのであるが、
今日は八時に家内と御所まで行って、
大文字の送り火に手を合わさなければならないので帰ってきた。
さて、掲句であるが季語は「雲の峰」で入道雲のことであり、夏である。
子供の頃、長く泳いでいると唇が真っ青になって叱られたものであった。
しかし、面打俳人としては、この少年は敦盛としたい。
敦盛の面の唇は蒼く塗ったりしないのであるが・・・・。
敦盛の亡霊が蒼い唇をして雲の峰を見上げている。
その遥か彼方は、浄土であろうと思う。」
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「薫風や血脈透ける女面 光勲 」
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平成 25年 7月 16日(火)
「梅雨も明け、今日は祇園祭の宵山である。
私は昨日は東京にいて、国立能楽堂展示室の「能面入門」を覗いた。
根来寺の珍しい「蛇」「狐蛇」「野干」が並んでいた。
その足で上野の博物館に行くと、能面は展示されていなかったが舞楽面と行動面があり、
これはこれで面白く勉強になった。
夕方、京都に帰ると大変な暑さで、しかもいつもより人出が多かった。
きっと鉾町界隈は人と熱気で蒸せかえっているに違いない。
いつもはバスで帰るのであるが、四条辺りが混んで渋滞するだろうと考え、地下鉄で帰ったのである。
掲句は「薫風」で夏六月である。
血脈には血管と血統の二つの意味があり、
「血管が透けて見え、まるで生きてるような女面が風薫る中にあった。」という読みと、
「この面打の師匠は〇〇さんだな。女面を見るとその作者の血統が良くわかるんだ。風が薫るがごとくに。」という読みとが出来る。
両方の意味で詠んだのであるが、比重は前者にかかっているとしたい。」
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「 花冷や猫と話をする男 光勲 」 |
平成 25年 6月 18日(火)
「6月も下旬になろうとして、どうも空梅雨のもようだ。
28日から始まる倉敷・藤戸寺の「沙羅の花を観る会と大月光勲能面展」の
沙羅の花の咲き具合が心配である。届いている情報では開花は少し遅れそうだが
蕾が沢山あり、雨がもう少し降れば会期中に沢山咲くであろうとのこと。
さて、今月の掲句の季語は「花冷」で春。
私の入っている俳句結社『銀化』の会誌は2か月前の句を掲載しているので、
6月号には4月の句が記されている。
そこから引用しているので季節遅れの句をつぶやくことになっていることをご了承くいただきたい。
桜の咲く頃は結構寒い日もある。
京都御所のある御苑では野良猫を沢山見かける。
見るからにすれっからしで性質の悪そうなのもいれば、連れて帰りたいほど可愛いのもいる。
定年後のような男が一匹の猫に声を掛けている。
「寒いか?」
「腹へってないか?」
「この暮らしは長いのか?」とか不景気なことばかり。
しかし、花冷えではあるが桜は咲き、暖かくなって来ている。
幾らかの希望は見いだせるのだ。」
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「 春日傘青白眼を使うひと 光勲 」 |
平成 25年 5月 23日(木)
「春も日差しの強い日は日傘をさしている女性を見かける。
日傘は便利なもので日除けの他に、
向こうから嫌いな人が来た時などに、
顔を隠すことも出来る。
都合が悪くなったらくるりと回して話題を変えるきっかけにも出来る。
青白眼(せいはくがん)は中国の竹林の七賢の一人・阮籍(げんせき)が、
気に入った相手には青眼すなわち普通の目で迎え、
嫌いな相手には白目で接したという故事からの言葉である。
まさか青白眼を使う女性はいないだろうが、
日傘で似たようなことをしていませんか?と言うこと・・・・。
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「雪折の竹藪越えて烏どち 光勲」
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平成 25年 4月 13日(日)
一月の末、前日にどか雪が降り、
相模原の稽古場まで通う途中の、
丘陵地の竹藪が雪の重みで雪崩を打って折れ伏していた。
空は晴れていたが、なぜか暗澹たる思いがした。
その時、数羽の烏がその上を飛び越えて行ったのである。
わたしは首(こうべ)を回(めぐ)らせて見送った。
何ということのない景色であったが、
一面の雪折れの藪と烏に強く生命力を感じたのである。
「烏どち」は「烏たち」。
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「 隙間風酒が酢になる話など 光勲 」
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平成 25年 3月 13日(水)
「季語は隙間風で冬。去年の年末に淀の味噌蔵に吟行に行った時の句である。
この蔵でも昔は酒を造っていたが、気候の関係で何度か酒を酢にしてしまい、
それからは味噌造りに鞍替えしたとの話をお聞きした。
のんびりとした話振りであったが、哀しい出来事であり、
冷やりと隙間風が心をよぎったのであった。」
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「 搬出の後の画廊の肌寒し 光勲 」
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平成 25年 2月 19日(火)
「季語は『肌寒』で晩秋。去年の十一月に開催した銀座・鳩居堂での個展の時の句である。
何もかも片付いて運送会社が荷物を取りに来る少しの時間、がらんとした画廊に一人佇んでいた。
さっきまでの熱気も騒めきも消えて急に肌寒く感じた、身体も心も。」
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『なりきることが大切』
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平成 25年 2月 3日(日)
「昨年末に、大徳寺・黄梅院の小林太玄和尚様から『なりきることが大切』というお言葉をいただきました。
小面になりきって打つ。般若になりきって打つ。打つことになりきる。その行為になりきる。一瞬になりきる。
何事もそのものであれ。」
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銀座鳩居堂での個展が無事終了しました。 |
平成 24年 11月 21日(水)
いろいろの人にお会い出来て本当に嬉しい日々でした。
懐かしい友人、
新しい友人、
古くから支えて来て下さった方々、
新しく御縁が繋がった方々、
本当にありがとうございました。
搬出の後の画廊の肌寒し 光勳
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個展
「銀座鳩居堂」
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平成 24年 11月 7日(水)
「いよいよ・・・」
「来週は銀座鳩居堂での個展が始まります。
女面が多くなりました。
古色も苦心しました。
皆様に御来場いただき、
色々お話できるのを楽しみにしています。
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藤戸寺にて |
平成 24年 10月 17日(水)
岡山県倉敷市の「藤戸寺」を訪ねました。
源平合戦の「藤戸の戦い」で有名な地で、能『藤戸』の舞台にもなっています。
沙羅双樹の花の寺としても有名で毎年6月中旬から「沙羅双樹の花を観る会」が開催されています。
京都を出る時は降っていなかった雨がJR「茶屋町駅」に到着した頃には本降りとなっていました。
案内をしていただく元岡山放送局の佐藤さんに出迎えていただき、車で約8分で到着です。
倉敷川沿いの藤戸の町の一番奥にひときわ高く大きな屋根が見えて来たのが藤戸寺の本堂でした。
急な石段を登ると広い境内があり右手奥に山口誓子の句碑「いま刈田にて海渡る兵馬見ゆ」があり、
次の短い石段の上に森白象の「お遍路や杖を大師とたのみつつ」が立っていました。
遅れて来た後援会の三宅さんと本堂で落ち合い、御住職をお尋ねしました。
御住職の北村増榮師と奥様に優しく迎え入れて頂き、
談笑は弾み、能面のこと、沙羅双樹のこと、俳句のこと、京都のことなどなど・・・・。
私の念願の「日本的空間での能面展を」と「能とゆかりのある所での能面を」が満たされ、
しかも郷里でもある地での能面展開催が決まりました。
来年6月下旬、「沙羅双樹の花を観る会」と同時開催です。
「稲稔る藤戸の海の遠退きて 光勳」
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「能面展」
神戸・生田神社薪能
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平成 24年 9月 30日(日)
9月25日
神戸・生田神社での能面展「平家物語に因んで」を盛況裡に終えることが出来ました。
薪能に使われた「敦盛」も展示して、能と能面の連携した能面展が、
珍しく好評で多くの反響をいただきました。
ありがとうございました
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「火入れ式」
神戸・生田神社薪能
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平成 24年 9月 30日(日)
9月19日
神戸・生田神社薪能にて火入式に奉仕させていただきました。
初めて着る裃に心も引き締まり、拝殿で御祓いを受けると、心は一層清々しくなりました。
この夜の演目『敦盛』(シテ藤井徳三師)には自作の「敦盛」が掛かり、
能面師として至福の出来事でありました。
多くの方に深く感謝申し上げます。
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『時間』
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平成 24年 9月 9日(日)
「時間は未來から流れてくる」という考えがあるそうである。
一秒前は一秒後に現在になり
現在は一秒後に過去となる。
つまり、時間は未來から流れて来ている。
過去の因果としての現在は有り得ない。
現在は未來の因果で決まっている。
未來は固定されていないので無限の可能性がある。
未來は常に明るく自分で切り開いてゆけるのだ。
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『敦盛を打って』 |
平成 24年 5月 16日(水)
「能『敦盛』に使われる能面は以外に何数種かあるのである。まず「十六」。
これは十六歳で死んだ敦盛の年齢からの命名である。
この『十六』にも色々と型変わりがあり、宝生流の面は利かぬ気が強く、
金剛流の面はおっとりしていてまったく違う面である。また眉が高く描かれていてまるで女面のような面もある。
かつて、「十六」のような面がない場合は「小面」を使ったこともあったと聞いている。
それはこの面あたりからの発想であろう。「若男」も面立ちによっては使うことができるが、
「中将」は年上過ぎて絶対に無理である。梅若六郎家には「十六中将」と言う颯爽とした面がある。
名称に「中将」が付いているが、面立ちは若く凛としている。観世宗家にはそのものずばりの名称の河内作「敦盛」がある。
この面を参考に今回私は打たせていただいた。謡本には「童子」も可也りと記されている。
河内作「敦盛」は「童子」の可愛らしさと熊谷直実に向っていった気丈さがあると思う。
恋多き横笛の名手、その上気丈な貴公子の面はなかなかの難題であった。
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鑿胼胝(のみだこ)の上にペン胼胝
連翹忌(れんぎょうき)
光勳
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平成 24年 3月 28日(水)
連翹忌は高村光太郎の忌日である。4月2日。
我が流儀は鑿をペンと同じように持つ。師匠にそう教えてもらった。他の流儀は知らない。
光太郎がどのように鑿を持ったか知る由もないが、彫刻家で詩人なのだから、さぞ大きな大きな胼胝が出来ていたのではなかろうか。
私も修行中は、それはもう立派な胼胝が出来ていた。材料の桧が古材で堅かったので、中指に鑿の柄が痛いほど食い込んだものである。
今でも、かつて程ではないがまあまあの胼胝はある。少々俳句を作っているのでペン胼胝も乗っていることだろうが、それは分からない。
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『如月』
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平成 24年 2月 11日(土)
「きさらぎ」とは寒いので着物を更に重ねるという意味だそうだ。
一年で一番寒い時期ではあるが、今年はその度合いが一段と厳しい。
京都の古い仕舞屋(しもたや)である我が家の底冷えは世界遺産にしたい程だ。
これに耐えるには夫婦二人効率よく無駄のない暮しを心がけなければならない。
年の豆小さく撒きて妻拾ふ 光勳
節句の豆撒きも嘗ては、大声で「鬼は外、福は内」と外の路地にまで撒いたものであるが、
ここ数年は小声で座敷にパラッと撒くのである。妻が掃除し易いように。
晩酌のあてに年の数の豆も出た・・・・・。
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「還暦」
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平成 23年 12月 14日(水)
「今年もあと僅かで終わろうとしています。来年は辰年で私も還暦です。
なぜ干支の中で「辰」だけが想像の動物なのか考えるのは私だけでしょうか?
もしかして、かつて古代中国には実在していたのでしょうか?
ともあれ、まだまだ発展途上なので頑張ります。
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『本物とか名品とか』 |
平成 23年 10月 01日(土)
「 俳人・中原道夫の『まっかな李朝』と云う短いエッセイに次のような文章がある。
『本物とか名品とか呼ばれるものには、何か賞める人を引き付ける力と同時に
やんわりとこちらを拒否するようなところがあると思っている。魅了しつつ拒むういう
アンビバレントな事柄を一瞬にして感じさせるものを本物と言うのだ。』
これは李朝の壺の話であるが、能面の女面にも言えると思う。
そんな女面を打ちたいものだ。」
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『恋は重荷』
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平成 23年 7月 26日(火)
「「重荷悪尉」を打ち終えた。
『恋重荷(こいのおもに)』の菊の下葉取りの老人の恋心は、
純粋で崇高な精神だと思う。
だからこそ最期に「姫小松の葉守の神」に昇華できるのである。
観世家・福来の「重荷悪尉」に冠があるのは、
そのためではないであろうか。
しかし、何処か取り乱した恥ずかしさ哀しさも覚える。
T・マンの『ヴェニスに死す』の老作曲家の
少年への恋と重なって・・・考えさせられる。」
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鎌倉での個展が終了しました。
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平成 23年 6月 5日(日)
多くの方々がお出でくださり感謝申し上げます。
鎌倉は鎌倉霊園に大切な方が眠っておられて、
時々お参りに訪れる程度の縁でしたが、
今回の展示会で良いご縁をいろいろ戴き、
何年か後に、また展示会をしたいと思いました。
ありがとうございました。
卯の花や胸一杯に鎌倉を 光勳
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『修業の利子』
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平成 23年 4月 22日(金)
「修業には利子が付いてくると知っていますか?
私は内弟子修業を12年3ヶ月し、独立してから21年経つが、
いまだに修業の有り難さを感じる時がある。どんなに心が乱れた時も、
面を打っていれば心が定まってくる。
それは、修業の利子であろうと思う。毎日毎日どんな悩みも問題も、
長時間座って面を打つその中で、解決して来たからであろう。
利子の大きさは、修業の年月によるのではなく、真剣さの度合いによるようだ。 」
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